心のデボーション3821
「民に命じて曰ふ汝ら祭司等レビ人がなんぢらの神ヱホバの契約の櫃を舁出すを見ば其處を發出てその後に從がへ」 ヨシュア3:3 明治元訳聖書
「民に命じて言った、「レビびとである祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのを見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。」 口語訳聖書
「契約の箱」
ヨシュアは民に「契約の箱ὁ κιβοωτός ὁ δεαθήκη」の後を行けと命じた。民を先導するのは「契約の箱」であった。道を先導する「契約の箱」とは「神の御言葉」である。(ヨシュア3:3)
(心のデボーション3821)
心のデボーション3822
「われ掌になんぢを彫刻めり なんぢの石垣はつねにわが前にあり」 イザヤ49:16 大正文語訳聖書
「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」 口語訳聖書
「神の手のひら」
別離は突然おとずれることがある。失ったのが大切な人であればあるほど、その事実を納得することは出来ない。なぜ、愛するものだけが逝き自分が残されたのか、心は悲しみと怒りに乱れる。その時は、立ち直ることを急ぐよりも、悲しめるだけ悲しむことである。その間、励ますことも慰めることもせず、ただ、そばにいてくれる人がいると本当に助かる。昔、恋人は互いの名前を手のひらに刻んだ。愛する人の名は神の手(χείρ)に刻まれている。(イザヤ49:10)
(心のデボーション3822)
心のデボーション3823
「イエス・キリストを信ずるに由りて凡て信ずる者に與へたまふ神の義なり。之には何等の差別あるなし。」 ロマ3:22 大正文語訳聖書
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」 口語訳聖書
「差別」
インドにはアウトカーストoutcasteと呼ばれる人々がいるという。カースト制の外にいる社会的地位のない人々で「見捨てられた人、追放された人」である。世界の歴史から差別が消えることはない。ロマ3:22no「差別διαστολή」は「区別、分離」の意で、神の救いはすべての民におよび、差別がない。
(心のデボーション3823)
心のデボーション3824
「汝らの狹くせらるるは我らに因るにあらず、反つて己が心に因るなり。」 Ⅱコリント6:12 大正文語訳聖書
「あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。」 口語訳聖書
「自分を窮屈にする」
「自分を窮屈にするστενοχωρέω」というギリシャ語は「苦悩」を意味する。つまり、苦悩とは心の場所を自分で狭くすることなのである。そのため、他が見えず、声も聞こえず、思いにとらわれてしまう。自分で心を窮屈にして、愛を受け取る余地をなくしているのである。場所を広くするには、まず、空けることである。(Ⅱコリント6:12)
「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」(詩篇81:10)
(心のデボーション3824)
心のデボーション3825
「されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ靈の祭なり。」 ロマ12:1 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」 口語訳聖書
「霊的礼拝」
キリスト者とは「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」として神にささげられた者である。それゆえに「みまえにきよく傷のない者」とされる。これはすべてのキリスト者が「なすべき霊的な礼拝τὴν λογικὴν λατρείαν ὑμῶν」である。(ロマ12:1)
(心のデボーション3825)
心のデボーション3826
「彼らの眼を暗くし、心を頑固にし給へり。 これ目にて見、心にて悟り、 ひるがへりて、 我に醫さるる事なからん爲なり」 ヨハネ12:40 大正文語訳聖書
「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」 口語訳聖書
「心で理解する」
弟には人さし指を茶わんのふちにかけて食べるクセがあった。それが気になって食事のたびに注意するが、何度注意してもなおらない。そのうちめんどうになって、注意するのをやめて、しばらくして気がつくと、指のクセはなおっていた。弟のクセは、うるさく注意してくる兄への抗議だったのだろう。クセをなおそうとするよりも、その意味を「心で理解」することが必要である。イエスが「彼をいやして」くださる。
(心のデボーション3826)
心のデボーション3827
「ヱホバふたたびシロにてあらはれたまふヱホバ、シロにおいてヱホバの言によりてサムエルにおのれをしめしたまふなりサムエルの言あまねくイスラエル人におよぶ」 Ⅰサムエル3:21 明治元訳聖書
「主はふたたびシロで現れられた。すなわち主はシロで、主の言葉によって、サムエルに自らを現された。こうしてサムエルの言葉は、あまねくイスラエルの人々に及んだ」 口語訳聖書
「預言者」
サムエルは「預言者」であった。神は「主の言葉によって、サムエルに自らを現され、サムエルの言葉は、あまねくイスラエルの人々に及んだ」(Ⅰサムエル3:20-21) 「預言者נָבִיא」の語源はアッカド語「ナブーム(神によって呼び出され、神に代わって語る人)」とされ、ギリシャ語でπροφήτης「πρό+φημί 前もって語る者」である。神は「御言葉」によって御自身を現わされる。
(心のデボーション3827)
心のデボーション3828
「我なんぢらに告ぐ、汝らの義、學者・パリサイ人に勝らずば、天國に入ること能はず」 マタイ5:20 大正文語訳聖書
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」 新共同訳聖書
「學者、パリサイ人の義」
「學者、パリサイ人の義」を笑うべきではない。むしろ、それにも足りない自らに気づくべきである。学ぶ者は「學者、パリサイ人の義(δικαιοσύνη)」にも自らを写して学ぶ。(マタイ5:20)
(心のデボーション3828)
心のデボーション3829
「乃ち七日七夜かれと偕に地に坐しゐて 一言も彼に言かくる者なかりき 彼が苦惱の甚だ大なるを見たればなり」 ヨブ2:13 明治元訳聖書
「こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。」 口語訳聖書
「激しく、大きな哀しみ」
次々と息子、娘たちを失い、自身も悪性の腫物に打たれたヨブの苦悩は「非常に大きく」、ヨブの友人達は言葉を失い、一言も話しかけることができなかった。 New King James Versionはhis grief was very greatと訳す。「grief」の語源は「gravis(重い)」で、「悲しみ」を意味する英語sadnessやsorrowよりも深く重い哀しみを意味し、大切なものを失った魂の哀しみをあらわす。LXXμεγάλην σφόδρα「激しく、大きな哀しみ」。(ヨブ2:13)
(心のデボーション3829)
心のデボーション3830
「おほくの民ゆきて相語いはん 率われらヱホバの山にのぼりヤコブの神の家にゆかん 神われらにその道ををしへ給はん われらその路をあゆむべしと そは律法はシオンよりいでヱホバの言はヱルサレムより出べければなり」 イザヤ2:3 明治元訳聖書
「多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。」 口語訳聖書
「主の山への道」
「主の山、ヤコブの神の家」にゆく者に、「彼(主、主の言葉)はその道をわれわれに教えられる」。(イザヤ2:3) 神の家への道は神が教えてくださる。聖書の御言葉はすべて神の家への、行くべき「道」である。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
(心のデボーション3830)
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