心のデボーション382

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心のデボーション3811

「足のうらより頭にいたるまで全きところなくただ創痍と打傷と腫物とのみなり 而してこれを合すものなく包むものなく亦あぶらにて軟らぐる者もなし」 イザヤ1:6  明治元訳聖書

「足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもってやわらげるものもない。」 口語訳聖書

 「トラウマ」

「打たれし傷、打ち傷、生傷」があることが不幸なのではない。「これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもってやわらげるものもない」ことが不幸なのである。明治元訳聖書で「傷」は「創痍」として「傷」と読ませる。「創痍」は「刃物で受けた傷」で「精神的な痛手」の意。「傷」はギリシャ語τραῦμα(トラウマ)で「負傷、怪我、傷」の意。神はトラウマpsychological trauma(心的外傷)を優しく包まれる。(イザヤ1:6)

(心のデボーション3811)

心のデボーション3812

「富を得んと思煩らふこと勿れ 自己の明哲を恃むこと勿れ」 箴言23:4  明治元訳聖書

「富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい。」 口語訳聖書

 「貧しきにも」

「手鍋下げても」というのはもう死語に近いかもしれない。愛はあっても貧しい生活では耐えられないというのである。しかし、あえていいたい。何もないところでこそ愛は成立するのではないか。富を求めることが間違いなのではなく、幸せをもたらすものが富(πλούσιος)であると信じて疑わないことが問題である。本当の愛があれば、貧しかろうと、豊かだろうと差し支えない。(箴言23:4)

(心のデボーション3812)

心のデボーション3813

「噫われ惱める人なるかな、此の死の體より我を救はん者は誰ぞ。」 ロマ7:24  大正文語訳聖書

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」 口語訳聖書

 「仰いで天に愧(はじ)ず」

「仰いで天に愧(はじ)ず」という。「愧(き)」は会意兼音声語で「鬼」はまるい頭の亡霊で、「鬼+心」で「気が引けて心が縮まる」の意。仏教で「愧(き)」は善の一つとされる。しかし、「仰いで天に愧(はじ)ない」人はいないと聖書は教える。人はみなταλαίπωρος(みじめな人間)である。(ロマ7:24)

(心のデボーション3813)

心のデボーション3814

「凡そ汝らが足の蹠にて踏む所は我これを盡く汝らに與ふ我が前にモーセに語し如し」 ヨシュア1:3  明治元訳聖書

「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。」 口語訳聖書

 「今日を歩く」

人に頼らず自分で歩くことで得るものは、意外に多い。自分で歩くのは時間もかかり、その分下手で遠回りな生き方になるかもしれない。しかし、思わぬ人や風景との出会いもある。不思議なことだが、祈りは歩く速度によく合う。歩くには歩き回ることが大切である。「足の裏で踏むとろは(ἐπιβαίνω)ことごとく」といわれている。「今日」を歩きた。(ヨシュア1:3)

(心のデボーション3814)

心のデボーション3815

「われ安然にして臥またねぶらん ヱホバよわれを獨にて坦然にをらしむるものは汝なり」 詩篇4:8  明治元訳聖書

「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」 口語訳聖書

 「安らかに伏し、また眠る」

詩人は「安らかに伏し、また眠る(κοιμάω)」。主が「わたしを安らかにおらせてくださる」からである。(詩篇4:3)明治元訳聖書は「ヱホバよわれを獨にて坦然にをらしむるものは汝なり」と訳す。「坦然」と書いて「たいらか」と読む。「坦然(たんぜん)」の「坦」は「平らか」で「何事もないかのように平然としたさま」をあらわす。詩人は悩みのなかにいるが、神への信頼により夜は平らかな心で床に臥す。

(心のデボーション3815)

心のデボーション3816

「イエス弟子たちに言ひ給ふ『躓物は必ず來らざるを得ず、されど之を來らす者は禍害なるかな。』」 ルカ17:1  大正文語訳聖書

「イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。」 口語訳聖書

 「いい子にするから」

若い夫婦がけんかをしている。すると小さな子どもが「いい子にするから、けんかを止めて」と仲裁に入った。子どもには大人が争っている意味がわからない。それで、何か悪いことがおこっている、それは自分が悪い子だからに違いない、それで「いい子にするから」と訴えるのである。「苦難は罪の罰である」という思いに小さな心を痛めている。「パパとママがけんかをしたのは、あなたのせいではない。心配させてごめんね」と謝る必要がある。

(心のデボーション3816)

心のデボーション3817

「われ嬉笑者の會に坐せずまた喜ばずわれ汝の手によりて獨り坐す汝憤怒をもて我に充したまへり」 エレミヤ15:17  明治元訳聖書

「わたしは笑いさざめく人のつどいにすわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていまた。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもってわたしを満たされたからです。」 口語訳聖書

 「嬉笑者の會」

「われ嬉笑者の會に坐せずまた喜ばず」(エレミヤ15:17) 「嬉笑者(πάιζω)」は「喜び笑う者」の意。フランシスコ会訳聖書、新共同訳聖書「笑い戯れる者」。「たわむれのあざけりの場」で、「うさばらし」(バルバロ訳聖書)してはならない。それは「あざけりmocked」である。むしろ、神の前に「ただ一人座る」ことを楽しめ。

(心のデボーション3817)

心のデボーション3818

「我なんぢらに告ぐ、汝らの義、學者・パリサイ人に勝らずば、天國に入ること能はず」 マタイ5:20 大正文語訳聖書

「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」 口語訳聖書

 「律法学者やファリサイ人の義」

「律法学者やファリサイ人の義(δικαιοσύνη)」とは、律法を守らんとする熱意である。彼らは日常のあらゆる行為に「律法」を貫こうとした。すべての事柄に神を認めんとする熱意が、「律法学者やファリサイ人の義」に劣っていいはずはない。

「さらば食ふにも飮むにも何事をなすにも、凡て神の榮光を顯すやうにせよ」 Ⅰコリント10:31 大正文語訳聖書

(心のデボーション3818)

心のデボーション3819

「智慧ある者の舌は知識を善きものとおもはしめ 愚なる者の口はおろかをはく」 箴言15:2  明治元訳聖書

「知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。」 口語訳聖書

 「賢者の舌」

「知恵ある者の舌は知識をわかち与え」、Today’s English Versionは、When wise people speak, they make knowledge attractive,(賢者の舌は、知識を魅惑的なものとする)と訳す。(箴言15:2) 

(心のデボーション3819)

心のデボーション3820

「賢人は知識をかくす されど愚なる者のこころは愚なる事を述ぶ」 箴言12:23  明治元訳聖書

「さとき人は知識をかくす、しかし愚かな者は自分の愚かなことをあらわす。」 口語訳聖書

 「宣伝」

「愚かな者(ἄφρων)は自分の愚かなことをあらわす」はToday’s English Version、「but stupid people advertise their ignorance(愚者は己が無知を宣伝する)」と訳す。Advertiseは「ad ~の方へ+vert向きを変える」で、「人々の関心をこちらに向ける、宣伝」の意。愚者は己が無知に人々の関心を向けようと試みる人である。(箴言12:23)

(心のデボーション3820)

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