心のデボーション0151
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。 口語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
Φωνὴ ἐν ῾Ραμὰ ἠκούσθη, κλαυθμὸς καὶ ὀδυρμὸς πολύς ῾Ραχὴλ κλαίουσα τὰ τέκνα αὐτῆς, καὶ οὐκ ἤθελεν παρακληθῆναι, ὅτι οὐκ εἰσίν.
「葡萄の涙」
春に、剪定されたぶどうの枝先から樹液が落ちるのを「葡萄の涙」という。スペインでは収穫したぶどうは長靴をはいた足で踏み潰し、「ラグリマ lagrima 涙」と呼ばれる最初の糖度の高いブドウ・ジュースを絞り出す。男たちはそれを飲みながら作業をする。これがスペインの「葡萄の涙 Lagrimas de uvas」である。「葡萄の涙」は厳寒の冬を過ごして、眠っていたぶどうが活動をはじめて流す苦しみの涙であり、やがてそれは甘いぶどうに凝縮される。ぶどうの樹が流した涙は糖度の高いぶどう液になる。子を失った母の流す涙(κλαυθμός)は、いつ糖度の高いぶどう酒に醸成されるのだろか。(マタイ2:18)
創世記35:16-19
35:16こうして彼らはベテルを立ったが、エフラタに行き着くまでに、なお隔たりのある所でラケルは産気づき、その産は重かった。
35:17その難産に当って、産婆は彼女に言った、「心配することはありません。今度も男の子です」。
35:18彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。
35:19ラケルは死んでエフラタ、すなわちベツレヘムの道に葬られた。
心のデボーション0152
「ヱホバかくいひ給ふ汝の聲を禁(とどめ)て哭(なく)こと勿れ汝の目を禁(とどめ)て涙を流すこと勿れ汝の工(わざ)に報(むくい)あるべし彼らは其敵の地より歸らんとヱホバいひたまふ 汝の後の日に望あり兒子(こども)等その境に歸らんとヱホバいひたまふ」 エレミヤ31:16-17 明治元訳聖書
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる」 新共同訳聖書
「後の日に望(のぞみ)あり」
マタイはヘロデに我が子を殺害されて悲しむベツレヘムの母親たちに「ヱホバかくいひ給ふ汝の聲を禁(とどめ)て哭(なく)こと勿れ汝の目を禁(とどめ)て涙を流すこと勿れ」、「兒子(こども)等その境に歸らんとヱホバいひたまふ」とエレミヤの言葉を語る。(マタイ2:18) エレミヤは「後の日」に殺害された子どもたちが復活し、いのちが回復すると告げる。「汝の後の日に望(のぞみ)ありוְיֵשׁ־תִּקְוָ֥ה לְאַחֲרִיתֵ֖ךְ」エレミヤ31:17
そして、マタイは「後の日の望みἐλπίς」がイエスであることを示す。「後の日に望み有り」と信じて、「聲を(とどめ)、目を禁(とどめ)」て望みなき日々を生きる。(エレミヤ31:16-17)
ルカ1:48
ὅτι ἐπέβλεψεν ἐπὶ τὴν ταπείνωσιν τῆς δούλης αὐτοῦ. ἰδοὺ γὰρ ἀπὸ τοῦ νῦν μακαριοῦσίν με πᾶσαι αἱ γενεαί·
口語訳聖書
この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
黙示22:5
καὶ εἶπέν μοι, οὖτοι οἱ λόγοι πιστοὶ καὶ ἀληθινοί, καὶ ὁ κύριος, ὁ θεὸς τῶν πνευμάτων τῶν προφητῶν, ἀπέστειλεν τὸν ἄγγελον αὐτοῦ δεῖξαι τοῖς δούλοις αὐτοῦ ἃ δεῖ γενέσθαι ἐν τάχει.
大正文語訳聖書
今よりのち夜ある事なし、燈火の光をも日の光をも要せず、主なる神かれらを照し給へばなり。彼らは世々限りなく王たるべし。
心のデボーション0153
「三根(みこ)の繩は容易(たやす)く斷(き)れざるなり」 伝道4:12 明治元訳聖書
「三つよりの綱はたやすくは切れない。」 口語訳聖書
「三つよりの糸は切れにくい」 新共同訳聖書
וְאִֽם־יִתְקְפֹו֙ הָאֶחָ֔ד הַשְּׁנַ֖יִם יַעַמְד֣וּ נֶגְדֹּ֑ו וְהַחוּט֙ הַֽמְשֻׁלָּ֔שׁ לֹ֥א בִמְהֵרָ֖ה יִנָּתֵֽק׃
καὶ ἐὰν ἐπικραταιωθῇ ὁ εἷς οἱ δύο στήσονται κατέναντι αὐτοῦ καὶ τὸ σπαρτίον τὸ ἔντριτον οὐ ταχέως ἀπορραγήσεται
「三つよりの糸」
撚糸になる前の糸を何と呼ぶのかは知らない。それは指の力で軽く引くだけで切れてしまう。3本まとめても同じである。だが、糸によりを与え、撚った三本を一本に撚りあわせれば、指の力で簡単には切れない強さになる。
「三根(みこ)の繩」の強さは、「撚り」から生まれる。人が三人いても何事でもない。だが撚りあわせられれば、並みではない強さが生み出される。人が「撚られ」、人と「撚られる」とはどういうことだろうか。漢字で「撚る」は「縁る」とも書く。
エペソ4:3
σπουδάζοντες τηρεῖν τὴν ἑνότητα τοῦ πνεύματος ἐν τῶ συνδέσμῳ τῆς εἰρήνης·
口語訳聖書
平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
心のデボーション0154
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」 マタイ5:3 大正文語訳聖書
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」 口語訳聖書
「福(さいはひ)なる者は靈に於て貧しき者[なり]。そは天國は彼等のものなればなり」 永井直治訳聖書
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
「本物の乞食」
山頭火は「乞食にも見放された家、そういう家がある」と日記に書く。その家は「貧富にかかわらず」どこにもあって、「そこは人間らしからぬ人間が住んでいる家だ、私も時々そういふ家に立ったことがある」という。(山頭火『日記一』春陽堂書店1986/ 5)
心の貧しい者は乞食に見放されたりはしない。人間らしい人間は決して「貧しさ」を手放しはしない。本物の乞食がいなくなると、本物の家もわからなくなる。
「心の貧しい者 οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι」は「霊において貧しい者」の意である。(マタイ5:3) 「心低き者」(ヤコブ4:6)のことである。
ヤコブ4:6
μείζονα δὲ δίδωσιν χάριν· διὸ λέγει, ὁ θεὸς ὑπερηφάνοις ἀντιτάσσεται, ταπεινοῖς δὲ δίδωσιν χάριν.
口語訳聖書
しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
心のデボーション0155
「ヱホバいにしへ其御わざをなしそめたまへる前に その道の始として我をつくりたまひき」 箴言8:22 明治元訳聖書
「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。」 口語訳聖書
「主は、その働きの初穂として、その業の初めに、わたしを造られた」 フランシスコ会訳聖書
ְֽהוָ֗ה קָ֭נָנִי רֵאשִׁ֣ית דַּרְכֹּ֑ו קֶ֖דֶם מִפְעָלָ֣יו מֵאָֽז׃
κύριος ἔκτισέν με ἀρχὴν ὁδῶν αὐτοῦ εἰς ἔργα αὐτοῦ
「御業の初め」
私が「私」という存在のあることに気づき、それに近づこうとするのは、神が何かの御業をおこされようとされているときである。神は御業をなされる前に、まず、その始めとして「私(知恵)」を創られる(κτίζω)。ここに「私とは何か」という問いを解く鍵がある。
「造られるκτίζω」は「建設する、創建する、創り出す、生み出す」の意。神はものごとの働きの始めとして、まず、そこに「知恵」を創建(set up)される。(箴言8:22)
箴言3:19
ְֽהוָ֗ה בְּחָכְמָ֥ה יָֽסַד־אָ֑רֶץ כֹּונֵ֥ן שָׁ֝מַ֗יִם בִּתְבוּנָֽה׃
ὁ θεὸς τῇ σοφίᾳ ἐθεμελίωσεν τὴν γῆν ἡτοίμασεν δὲ οὐρανοὺς ἐν φρονήσει
口語訳聖書
主は知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。
心のデボーション0156
「ナザレといふ町に到りて住みたり。これは預言者たちに由りて、『彼はナザレ人と呼ばれん』と云はれたる言の成就せん爲なり」 マタイ2:23 大正文語訳聖書
「ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである」 口語訳聖書
「この方はナザレ人と呼ばれる」 新改訳聖書
καὶ ἐλθὼν κατῴκησεν εἰς πόλιν λεγομένην Ναζαρέτ ὅπως πληρωθῇ τὸ ῥηθὲν διὰ τῶν προφητῶν ὅτιΝαζωραῖος κληθήσεται.
「朦朧体」
明治時代後半期に岡倉天心の指導の下、横山大観、菱田春草等によって、洋画の外光派に影響をうけ、それまでの伝統的な日本画の線描技法を用いず彩描に絵の具をつけず水で濡らしただけの空刷毛でぼかし、空気や光などを表現し、新しい日本画の表現を生み出した。当時の批評家からは「朦朧体」(ぼんやりとしてはっきりしない)と揶揄され、認められなかった。しかし、その後「朦朧体」は近代日本画に革新をもたらすものとして高い評価を受けていくのである。
イエスが悪意をもって「ナザレ人Ναζαρά」と呼ばれたように、新しきものは、いつも悪意ある批評にさらされる。だが、悪口はそのままにしておくと、悪口そのものが意味あるものに変わる。(マタイ2:23)
心のデボーション0157
「農夫たねをまかんに何で日々たがへし日々その地をすき その土塊をくだくことのみを爲んや」 イザヤ28:24 明治元訳聖書
「種をまくために耕す者は絶えず耕すだろうか。彼は絶えずその地をひらき、まぐわをもって土をならすだろう。」 口語訳聖書
「種を蒔くために、耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして、畝を造るだけだろうか」 新共同訳聖書
הֲכֹ֣ל הַיּ֔וֹם יַחֲרֹ֥שׁ הַחֹרֵ֖שׁ לִזְרֹ֑עַ יְפַתַּ֥ח וִֽישַׂדֵּ֖ד אַדְמָתֽוֹ׃
μὴ ὅλην τὴν ἡμέραν μέλλει ὁ ἀροτριῶν ἀροτριᾶν ἢ σπόρον προετοιμάσει πρὶν ἐργάσασθαι τὴν γῆν
「農夫を指図するのは神」
日本では年に立夏、立秋、立冬、立春の直前の18日間を「土用」という。「土用用事」の略で、土公神(どくじん)という神がさかんに動く時期で、この間に土をいじると土公神を傷つけ、怒りをかうので、土を掘り返すようなことは慎む。井戸を掘ったり、農耕はしない。土に種が発芽するので耕す時ではない。土を耕し(ἀροτρεύω)、種を蒔く人は、「時」を知る。(イザヤ28:24)
「農夫を指図するのは神である」(イザヤ28:26 新改訳聖書)。
エレミヤ4:3
「汝らの新田を耕せ。荊棘(いばら)の中に種(ま)くなかれ」 明治元訳聖書
「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」 新改訳聖書
「自分たちで休閑地を耕せ。茨の中に種を蒔くな」 フランシスコ会訳聖書
Ⅰコリント9:10
ἢ δι᾽ ἡμᾶς πάντως λέγει; δι᾽ ἡμᾶς γὰρ ἐγράφη, ὅτι ὀφείλει ἐπ᾽ ἐλπίδι ὁ ἀροτριῶν ἀροτριᾶν, καὶ ὁ ἀλοῶν ἐπ᾽ ἐλπίδι τοῦ μετέχειν.
口語訳聖書
それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。
心のデボーション0158
「汝らみな心を同じうし、互に思ひ遣り」 Ⅰペテロ3:8 大正文語訳聖書
「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」 口語訳聖書
「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」 新改訳聖書
τὸ δὲ τέλος πάντες ὁμόφρονες, συμπαθεῖς, φιλάδελφοι, εὔσπλαγχνοι, ταπεινόφρονες,
「互に思ひ遣り」
「互に思ひ遣りσυμπαθής」は「σύν共に+πάσχω感じる」である。「πάσχω」には「経験する」の意味もある。相手の苦痛や不快を「共に感じ、共に経験する」ことである。さらに、苦しみばかりでなく楽しみや快さを受け取るのも「同情し合うσυμπαθής」である。(Ⅰペテロ3:8)
「我らの大祭司は我らの弱を思ひ遣ること能はぬ者にあらず」(へブル4:15)」は、「キリストは私たちの弱さ、楽しみや快さを受け取り、共に経験することのできない御方ではない」と読むこともできる。
ロマ12:15
χαίρειν μετὰ χαιρόντων, κλαίειν μετὰ κλαιόντων.
口語訳聖書
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
Ⅰコリント12:26
καὶ εἴτε πάσχει ἓν μέλος, συμπάσχει πάντα τὰ μέλη· εἴτε δοξάζεται [ἓν] μέλος, συγχαίρει πάντα τὰ μέλη.
口語訳聖書
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
心のデボーション0159
「ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ」 マタイ25:34 大正文語訳聖書
「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。』」 口語訳聖書
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」 新改訳聖書
τότε ἐρεῖ ὁ βασιλεὺς τοῖς ἐκ δεξιῶν αὐτοῦ, δεῦτε, οἱ εὐλογημένοι τοῦ πατρός μου, κληρονομήσατε τὴν ἡτοιμασμένην ὑμῖν βασιλείαν ἀπὸ καταβολῆς κόσμου·
「祝せられたる者」
空腹の人に一切れのパンを、渇く人に一杯の冷たい水をさし出す人が「祝せられたる者εὐλογέω」と呼ばれる。「祝せられたる者」には「幸せな者」という意味が含まれている。
インドでは施しをした人が「ありがとう」と言う。感謝するのは施しを受けた人ではなく、する側である。そのようにしてさし出される一杯の冷たい水ほど人を幸せにしてくれるものはない。しかし、一方、そのインドには、我が子が「バクシーシ(施し)」を受けて生きていけるように、子どもの手や足を切断した親もいたという悲惨な話もある。その方が施しを受けやすく、子どもも幸せになれる「親の愛」だという。この子どもに施しをする人は何に対して「ありがとう」を言えばよいのだろうか。
「祝せられたる者εὐλογέω」とは、「神の御国の祝福を受け継ぐ者」のことである。(マタイ25:34)
Ⅰテサロニケ2:12
παρακαλοῦντες ὑμᾶς καὶ παραμυθούμενοι καὶ μαρτυρόμενοι εἰς τὸ περιπατεῖν ὑμᾶς ἀξίως τοῦ θεοῦ τοῦ καλοῦντος ὑμᾶς εἰς τὴν ἑαυτοῦ βασιλείαν καὶ δόξαν.
口語訳聖書
御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。
Ⅰペテロ1:3
εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν ἰησοῦ χριστοῦ, ὁ κατὰ τὸ πολὺ αὐτοῦ ἔλεος ἀναγεννήσας ἡμᾶς εἰς ἐλπίδα ζῶσαν δι᾽ ἀναστάσεως ἰησοῦ χριστοῦ ἐκ νεκρῶν,
口語訳聖書
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
心のデボーション0160
「然(され)ば悔改(くいあらため)に符(かな)ふ果(み)を結(むす)べよ」 マタイ3:8 明治元訳聖書
「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」 口語訳聖書
「悔い改めにふさわしい実を結べ」 新共同訳聖書
ποιήσατε οὖν καρπὸν ἄξιον τῆς μετανοίας
「悔改に符(かな)ふ」
「悔い改めに相應(ふさは)しい(ἄξιος)」を明治元訳聖書は「悔改 (くいあらため)に符(かな)ふ」とする。「符」は割符のことで、竹札を二つに割り、その片方をそれぞれが所有し、後日、両片がぴたりとあうことをもって証拠とした。ギリシャ語「相應(ふさは)しい(ἄξιος)」は「ἄγω重さを量る、目方がある」から来て、「同じ重さの、等価値の」の意である。
バプテスマのヨハネは「悔い改め」とぴたりと合う量の「果」を結べと述べる。
「悔い改め」と同量の「実」を結ぶこと。我々の「実」はいつも「悔い改め」の内容に対して少なすぎはすまいか? それでは「割符」は合わない。しかし、神は「割符に合わない悔い改め」を「真の悔い改め(μετάνοια)」と同量のものとお認めになる。(マタイ3:8)
イザヤ1:16-17
1:16あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、
1:17善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。
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