心のデボーション3791
「その頃バプテスマのヨハネ來り、ユダヤの荒野にて教を宣べて言ふ」 マタイ3:1 大正文語訳聖書
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、」 口語訳聖書
「白槌師」
仏教では新住職の就任儀式で、説法のはじまりに、まず槌を打って「白槌師」が問訊のはじまりを告げる。バプテスマのヨハネは荒野(ἔρημος)で槌を打ち鳴らし、新しい主の到来とその教えに耳を傾けるように促した。(マタイ3:1)
(心のデボーション3791)
心のデボーション3792
「又婦に言たまひけるは我大に汝の懷姙の劬勞を増すべし汝は苦みて子を產ん又汝は夫をしたひ彼は汝を治めん」 創世記3:16 明治元訳聖書
「つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い」 口語訳聖書
「ヒステルスという動物」
ヒステリー(ドイツ語 Hysterie, 英語 hysteria, ギリシャ語 ὑστερία)の語源はギリシャ語の子宮を意味するヒステラ ὑστέραからきたものである。名医ヒポクラテスが「女性の体にはヒステルス(子宮)という動物がいて、体の中をあちこち移動している。ヒステルスは常に子どもを産みたがり、産ませてやらないと生ませろ生ませろと暴れる。だから女性は金切り声を上げるのだ」といったことからきている。女性は苦しみながら何を生みたがっているのだろうか? ヒステルスという動物は最近子どもの体に入り込んだようである。(創世記3:16)
「その苦しみは産みの苦しみ(ὠδίνω)をする女のようであった」(詩篇48:6)
(心のデボーション3792)
心のデボーション3793
「多の友をまうくる人は遂にその身を亡す 但し兄弟よりもたのもしき知己もまたあり」 箴言18:24 明治元訳聖書
「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」 口語訳聖書
「淡さこと水の如し」
荘子の「山木篇」に「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」とある。「醴(れい)」は甘酒のこと。友(φίλος)との交わりは甘酒のように口に旨く濃密だが、それがつづけば口に余る。むしろ水のように淡く、口に自然で、いつまでもつづき、なくてはならぬ交わりを良しとする。(箴言18:24)
(心のデボーション3793)
心のデボーション3794
「なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。」 マタイ6:20 大正文語訳聖書
「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」 口語訳聖書
「行為の面白さ」
まったく同じ仕事に、ある人には高額の報酬を、別の人にはほんのおしるし程度の報酬を約束したとする。どちらが、仕事を面白く感じるだろうか? 実験によると、答は報酬が少ない人だったそうである。高い報酬の人はそれに満足して仕事はどうでもよく感じられ、低い人は満足を仕事に求めて、その面白さを発見できたのだという。宝を天に積む人(θησαυρίζετε δὲ ὑμῖν θησαυροὺς ἐν οὐρανῷ)は、地での報酬が少ないだけ、行為の「面白さ」を発見するはずである。(マタイ6:20)
(心のデボーション3794)
心のデボーション3795
「ここに惡魔イエスを聖なる都につれゆき、宮の頂上に立たせて言ふ、」 マタイ4:5 大正文語訳聖書
「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて」 口語訳聖書
「アクロバティックな」
サタンはイエスを神殿の頂に立たせて、イエスを誘惑した。(マタイ4:5) 「神殿の頂ἐπὶ τὸ πτερύγιον τοῦ ἱεροῦ」は神殿の屋根の突出部分(πτερύγιον)である。人が立つ場所ではない。アクロバットacrobatということはギリシャ語ἀκροβατέω(爪先で歩く)からきており、軽業師、曲芸師(中国語「百劇」)の意である。サタンは人の為し得ない所に主イエスを立たせて、人の為し得ないアクロバティックな技を行わせようと試みる。(マタイ4:5)
(心のデボーション3795)
心のデボーション3796
「イエス言ひたまふ『異邦人の王はその民を宰どり、また民を支配する者は恩人と稱へらる。』」 ルカ22:25 大正文語訳聖書
「そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」 口語訳聖書
「恩人」
権威をもって民のうえに君臨する支配者は「恩人εὐεργέτης」と呼ばれる者でなければならない。(ルカ22:25)新共同訳聖書、新改訳聖書は「守護者」と訳す。New King James Versionは「benefactors」と訳す。Benefactorは「beneよい+factor行う人」で「良いことをする人、すなわち慈善家」の意である。ギリシャ語εὐεργέτηςは「守護者、慈善家、恩恵者」の意である。(ルカ22:25)
(心のデボーション3796)
心のデボーション3797
「ドマに係るおもにの預言 いはく/人ありセイルより我をよびていふ 斥候よ夜はなにのときぞ 斥候よ夜はなにの時」 イザヤ21:11
「ドマについての託宣。セイルからわたしに呼ばわる者がある、「夜回りよ、今は夜のなんどきですか、夜回りよ、今は夜のなんどきですか」。」 口語訳聖書
「魂の暗闇」
夜の暗闇の中で目を覚ましている人がいる。その魂は恐ろしい暗闇につつまれている。そこで城壁の夜回りに「今は夜の何時か」と尋ねる。夜回りは「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」としか答えない。人生の暗闇につつまれた時は、その暗闇をじっと耐えることである。人は暗闇に耐えた分だけ、他者にやさしくなれる。魂の深みにふれることができるからである。
(心のデボーション3797)
心のデボーション3798
「知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、」 Ⅱペテロ1:6 大正文語訳聖書
「知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、」 口語訳聖書
「知識に節制を」
「禁酒する人」の英語abstainerは「abs離れた+tainer保つ、つかむ人」からなり、「保ちつづけていたもの(事)を手放す」から、禁酒、禁煙など「節制する人」の意。
Ⅱペテロ1:6は「知識に節制をἐν δὲ τῇ γνώσει τὴν ἐγκράτειαν」と教える。「節制ἐγκράτεια」は「自制、慎み」の意。神の知恵をつかむ人は、それまでつかんでいた知識を手放す(abstainする)。(Ⅱペテロ1:6)
(心のデボーション3798)
心のデボーション3799
「この故にもし此等のいと小き誡命の一つをやぶり、且その如く人に教ふる者は、天國にて最小き者と稱へられ、之を行ひ、かつ人に教ふる者は、天國にて大なる者と稱へられん」 マタイ5:19 大正文語訳聖書
「だから、最も小さなおきての一つでもこれを無視し、またそうするように人々に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれるであろう。しかし、おきてを行ない、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「天の国」
天の国では、「大いなる者」「小さき者」がすっかり入れ替わっているだろう。だから「小さき者」でよいというなら、天の国ではさらに小さいだろう。
天の国に「大μέγας」も「小ἐλάχιστος」もない。地にてもそれは同じである。(マタイ5:19)
(心のデボーション3799)
心のデボーション3800
「神の誡命を守るは即ち神を愛するなり、而してその誡命は難からず。」 Ⅰヨハネ5:3 大正文語訳聖書
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」 口語訳聖書
「神を愛する」
神の戒めは、神を愛する者には「むずかしくないβαρεῖαι οὐκ εἰσίν」。「難しいβαρύς」は「重苦しい、煩わしい、耐え難い、重荷となる」の意。愛の担う重荷は軽く、その戒めは難しくない。(Ⅰヨハネ5:3)
(心のデボーション3800)
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