心のデボーション379

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

心のデボーション3781

「汝等もキリストに在りて、眞の言すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖靈にて印せられたり。」 エペソ1:13  大正文語訳聖書

「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」 口語訳聖書

 「聖霊の証印」

人が「真理の言葉、すなわち、救の福音を聞き、また、キリストを信じた」ことについて、神は「聖霊の証印」をもって「確認の印」を押される(σφραγίζω)。(Ⅱコリント1:22) 「印を押すσφραγίζω」は「すべての行為の完了と保証(確認)」の意である。救いの福音を聞く者は、同時にその実現と完了を、あらかじめ聖霊によって確約され、その保証を手渡されるのである。(エペソ1:13)

(心のデボーション3781)

心のデボーション3782

「舌は火なり、不義の世界なり、舌は我らの肢體の中にて、全身を汚し、また地獄より燃え出でて一生の車輪を燃すものなり。」 ヤコブ3:6  大正文語訳聖書

「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」 口語訳聖書

 「人生の車輪」

舌γλῶσσαはころげまわる小犬のようだ。少しもじっとしていることができず、悪をふりまく。舌は火である。それも小さな炎だ。しかし、小さくても放っておくと「人生の車輪」を灰にする。人生に移り変わりをもたらす「車輪τροχός」を焼いてしまうのである。この火は小さいうちに消すしかない。舌の失敗は「あんなことをいってごめん」の一言で解決できることも少なくない。時を逃すと、手のつけられない大火事になる。(ヤコブ3:6)

(心のデボーション3782)

心のデボーション2783

「主いひ給ふ『往け、この人は異邦人・王たち・イスラエルの子孫のまへに、我が名を持ちゆく我が選の器なり。』」 使徒9:15  大正文語訳聖書

「しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」 口語訳聖書

 「選びの器」

神は回心したパウロについてアナニヤに「あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」と告げられた。(使徒9:15) 「我が名を持ちゆく我が選の器σκεῦος ἐκλογῆς ἐστίν μοι οὖτος τοῦ βαστάσαι τὸ ὄνομά μου」、持ちゆく(βαστάζω)は「担う、担ぐ、背負う、携える」の意。パウロは神の名を背負って運ぶ選びの器であった。

(心のデボーション3783)

心のデボーション3784

「即ち神はキリストに在りて世を己と和がしめ、その罪を之に負はせず、かつ和がしむる言を我らに委ね給へり。」 Ⅱコリント5:19  大正文語訳聖書

「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。」 口語訳聖書

 「シャーレーム」

和解を意味するヘブル語「שָׁלוֹם シャーレーム」は「返済する、支払う」から来たことばである。何かを支払うことなしに平和「シャーローム」はおとずれないというのが聖書の教えである。支払いの内容は、何かをすることよりも、何もしないことの方が多いかもしれない。和解のために、キリストがすでに支払いをすませてくださったからである。私にできるのは、和解のことば(τὸν λόγον τῆς καταλλαγῆς)をたずさえて歩くことだけである。(Ⅱコリント5:19)

(心のデボーション3784)

心のデボーション3785

「これ預言者イザヤによりて、斯く云はれし人なり、曰く 『荒野に呼はる者の聲す 「主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ」』」 マタイ3:3  大正文語訳聖書

「預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。」 口語訳聖書

 「荒野に呼はる者の聲す」

バプテスマのヨハネは「荒野で呼ばわる者の声」であった。(マタイ3:3) 「声φωνή」は大正文語訳聖書では「聲」の字が使われる。「聲」は「耳」と「殸(けい)」の会意文字で、「殸(けい)」は古代中国の吊るされた石を打ちならう打楽器で、「聲」は「殸(けい)」の演奏とそれを聞く者とからなる。「荒野に呼はる者の聲」は荒野に流れる福音とそれを聞かんとして荒野に赴く人々によって伝わる「よき音すれ」である。

(心のデボーション3785)

心のデボーション3786

「惰者はその手を盤にいるるも之をその口に擧ることを厭ふ」 箴言26:15  明治元訳聖書

「なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。」 口語訳聖書

 「怠け者」

「なまけ者(ὀκνηρός)は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。」(箴言26:15) 「皿」を明治元訳聖書は「盤」と訳して「さら」と読ませる。「盤」は食物を盛る平らで丸い大皿で、漆器におおい。なまけ者は食べものが盛られた大皿に手を伸ばすが、それを自分の口に運ぶことをいとう。それほどの怠け者は珍しいが、神の恵みの盛られた「盤」に手を伸ばしながらも、自分の口で味わうことをいとう怠け者は珍しくはない。(箴言26:15)

(心のデボーション3786)

心のデボーション3787

「それ人の子の來れるは、失せたる者を尋ねて救はん爲なり」 ルカ19:10  大正文語訳聖書

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」 口語訳聖書

 「いい子の病理」

いい子というのは親の期待に応えるために必死になって生きてきたところがある。そのために、自分の本当にやりたいことがわからなくなって、物事に新鮮な驚きや関心が持てなくなりやすい。生きる方向を見失っているという点で、「失われた人ἀπόλλυμι(全くない者にされた人、空っぽの人)」と共通の心理状態にある。いい子としての自分だけでなく、悪い部分も自分として生きてみることだ。そのようにして、人は真剣に自分自身と対面し、自分の方向を見つけていく。(ルカ19:10)

(心のデボーション3787)

心のデボーション3788

「敎をききて智慧をえよ 之を棄ることなかれ」 箴言8:33  明治元訳聖書

「教訓を聞いて、知恵を得よ、これを捨ててはならない。」 口語訳聖書

 「知恵を得よ」 

神の教えを聞いて得た知恵(σοφία)を「捨ててפּרע」はならない。「捨てるפּרע」は「なおざりにする、放置する」の意。新改訳聖書は「これを無視してはならない」、フランシスコ会訳聖書は「これを拒んではならない」と訳す。「知恵」は明治元訳聖書で「智慧」が用いられる。「智」は会意兼形声文字で、「知」は「矢+口」から「矢のように的確にう」の意。「智」は「知+曰」で、「的確にいいあてる」こと。「慧」は会意兼形声文字で「彗+心」で、「彗」は「細いすすきの箒をもつさま」で「細かく、細い」から、「心が細かく繊細に働く」の意である。(箴言8:33)

(心のデボーション3788)

心のデボーション3789

「この故にもし此等のいと小き誡命の一つをやぶり、且その如く人に教ふる者は、天國にて最小き者と稱へられ、之を行ひ、かつ人に教ふる者は、天國にて大なる者と稱へられん」 マタイ5:19 大正文語訳聖書

「だから、最も小さなおきての一つでもこれを無視し、またそうするように人々に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれるであろう。しかし、おきてを行ない、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「智慧」

「地に四の物あり微小といへども最智し」。(箴言30:24-28 明治元訳聖書)  箴言は「微小といへども最智いものが四つある」として「蟻、岩たぬき、いなご、やもり」をあげる。「生き物」はどれもみな「智慧(σοφία)」に満ちている。いのちを創り給う神の智慧を宿している。それらの「小さきいのち一つ」からでも神を知ることができる。(マタイ5:19 箴言30:24-28)

(心のデボーション3789)

心のデボーション3790

「汝はわがうくる謗とはぢと侮辱とをしりたまへり わが敵はみな汝のみまへにあり」 詩篇69:19  明治元訳聖書

「あなたはわたしの受けるそしりと、恥と、はずかしめとを知っておられます。わたしのあだは皆あなたの前にあります。」 口語訳聖書

 「命長ければ恥多し」

「命長ければ恥多し」は聖王堯が訪れた国の役人から「長生きし、富み栄え、多くの子に恵まれますように」との挨拶を受けて、「寿(いのちなが)ければ則ち辱多し(長生きをすると、恥をかく機会も多くなる)」と答えたとこから来ている。人生も長ければ、かく恥(αἰσχύνη)も多いのは当然であるが、長生きに遠慮する必要などない。「恥の多きは足るるいのちと知るべし」である。(詩篇69:19)

(心のデボーション3790)

コメント