心のデボーション3751
「イエス此處より進みたまふ時、ふたりの盲人さけびて『ダビデの子よ、我らを憫みたまへ』と言ひつつ從ふ。」 マタイ9:27 大正文語訳聖書
「そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。」 口語訳聖書
「あなたがたはキリストをどう思うか」
イエスは「あなたがたはキリストをどう思うかτί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ χριστοῦ;」と言われる。(マタイ22:42)この問いに二人の目の見えない乞食と、悪鬼に憑かれて苦しむ娘を抱えるカナンの女は「ダビデの子υἱὸς Δαυίδ」と答え、二人の乞食の目は開け、娘は癒された。(マタイ9:27; 15:22) パリサイ人もイエスを「ダビデの子」と呼んだ。しかし、彼らに力ある業はなされず、パリサイ人たちはイエスを十字架につけた。(マタイ22:41-45)イエスをどのように告白するかは、その身におこる神の業によって知られる。
(心のデボーション3751)
心のデボーション3752
「わが幼兒よ、汝らの衷にキリストの形成るまでは、我ふたたび産の苦痛をなす。」 ガラテヤ4:19 大正文語訳聖書
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」 口語訳聖書
「キリストのかたち」
いい人形を造るには「自分で自分をつくる努力の気構え」がないといけないといわれる。人形のかたちを彫りながら、実は自分自身を写しているのである。内にあふれるものがかたちを造り、かたちが人に語りかける。「内にキリストを形造るμέχρις οὖ μορφωθῇ χριστὸς ἐν ὑμῖν·」とは、キリストが見られたように見、愛されたように愛することである。イエズス・キリストは、イエズス・キリストが形造られる(μορφόω)時まで「あなたがたのために産みの苦しみを(ὠδίνω)」されている。(ガラテヤ4:19) μορφόωは「胎児が母体に形造られる」の意で、イエズス・キリストは信じる人の内に新しいいのちが胎児のごとく形造られ、いのちとして生み出されるまで、産みの苦しみ(十字架の苦しみ)をなさる。
(心のデボーション3752)
心のデボーション3753
「我曠野にてかれらの子等に言り汝らの父の法度にあゆむなかれ汝らの律法を守るなかれ汝らの偶像をもて汝らの身を汚すなかれ」 エゼキエル20:18 明治元訳聖書
「わたしはまた荒野で彼らの子どもたちに言った、あなたがたの先祖の定めに歩んではならない。そのおきてを守ってはならない。その偶像をもって、あなたがたの身を汚してはならない。」 口語訳聖書
「荒野にて」
神はイスラエルの民を「惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった」。(エセキエル20:16) それで、神は「荒野で」、「先祖の定めに歩まず、そのおきてを守らす、その偶像をもって身を汚してはならない」と語られる。(エセキエル20:18) 「荒野ἔρημος」は人が神の言葉を聞く場である。
(心のデボーション3753)
心のデボーション3754
「なんぢヱホバのまへに口をつぐみ忍びてこれを俟望め おのが途をあゆみて榮るものの故をもて あしき謀略をとぐる人の故をもて心をなやむるなかれ」 詩篇37:7 明治元訳聖書
「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。」 口語訳聖書
「人の痛みに鈍感な人」
親密な関係を保つには、相手の心の傷にむやみに踏み込まないだけの自制が必要である。愛は閉ざされた扉を無理にこじあけるよりも、内側から開くまで待つ。人の痛みに鈍感な人は、自分の痛みには敏感なものだ。土足で踏み荒らしておきながら、自分の善意が通じないと怒る。親しくなってもその関係を損なわない為には、祈りの中で相手を「絶えず思う」ことである。祈りの中でつくられていく交わりは心の傷を癒しとる力がある。
(心のデボーション3754)
心のデボーション3755
「われ安然にして臥またねぶらん ヱホバよわれを獨にて坦然にをらしむるものは汝なり」 詩篇4:8 明治元訳聖書
「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」 口語訳聖書
「安らかに伏し」
「わたしは安らかに伏し、また眠ります」。「安らかに שָׁלוֹם」は「平和、安全に」の意。LXXはεἰρήνη「平安、平和」である。明治元訳聖書は「安然に」と訳し「やすらかに」と読ませる。「安然(あんねん)」は「安らか、精神的平安」の意である。
「主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」。「安らかに בֶּטַח」は「無事、安全、平和」の意。LXXはἐλπίςで「望み、希望」の意。明治元訳聖書は「坦然(たんぜん)」と訳し「たいらか」と読ませる。「坦」は「たいら」をあらわし、「心の平然とした安らかさ」をあらわし、「心がやすらかで、こまかいことを気にかけない」の意である。
神に寄り頼む者は「心穏やかに、希望をもって、安らかに」伏して眠る。神がその心を「何事にも平然とした、平らかに」されるからである。(詩篇4:8)
(心のデボーション3755)
心のデボーション3756
「時は滿てり、神の國は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ」 マルコ1:15 大正文語訳聖書
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」 口語訳聖書
「時は満ちた」
「時は滿てりπεπλήρωται ὁ καιρὸς」。「時」はκαιρὸςが用いられる。「時、時間χρόνος」ではなく、「主の働きの
決定的な時καιρὸς」が「満ちたπληρόω(充ち満ちた、充満した、成就した、)」。神が目的を遂行される、まさにその時は、現在に充ち満ちたのである。(マルコ1:15)
(心のデボーション3756)
心のデボーション3757
「そのエジプトの助はいたづらにして虛し このゆゑに我はこれを休みをるラハブとよべり」 イザヤ30:7 明治元訳聖書
「そのエジプトの助けは無益であって、むなしい。それゆえ、わたしはこれを「休んでいるラハブ」と呼んだ」 口語訳聖書
「何もしないラハブ」
「何もしないラハブ(Ῥαχάβ)」ということわざがある。聖書で「ラハブ רַהַב」は、巨大な蛇かワニのような怪獣で、ここではエジプトを意味する。イスラエルがまむしや飛ぶ蛇のエジプトに助けを求めて財宝を運んでも、「エジプトの助け」は空しい。「何もしないラハブ」は、いかにも力がありそうだが、みせかけである。内なる「何もしないラハブ」が「何もしないラハブ」を頼らせるのかもしれない。(イザヤ30:7)
(心のデボーション3757)
心のデボーション3758
「事を隱すは神の榮譽なり 事を窮むるは王の榮譽なり」 箴言25:2 明治元訳聖書
「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である。」 口語訳聖書
「隠れた美しい行為」
パスカルは言う。「隠れた美しい行為は、最も値打ちのあるものである」とし、「どとのつまり、それれらのものは完全に隠されたわけではない」、「最も美しいことは、隠そうと思った点なのだから」という。(パスカル「パンセ」159) 隠そうと思った時点で、それは知られてしまったのである。
「事を隠す(κρύπτω「覆う」)のは神の誉である」(箴言25:2)
(心のデボーション3758)
心のデボーション3759
「この故にもし此等のいと小き誡命の一つをやぶり、且その如く人に教ふる者は、天國にて最小き者と稱へられ之を行ひ、かつ人に教ふる者は、天國にて大なる者と稱へられん」 マタイ5:19 大正文語訳聖書
「それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」 口語訳聖書
「小さいものの価値」
「小さく、つまらぬἐλάχιστος」ものの価値を知らぬ者は、天では「小さく、つまらぬ者」と呼ばれる。(マタイ5:19)
(心のデボーション3759)
心のデボーション3760
「されば汝らに請ふ、わが汝等のために受くる患難に就きて落膽すな、是なんぢらの譽なり。」 エペソ3:13 大正文語訳聖書
「だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。」 口語訳聖書
「落胆」
人は受けた患難からだけでなく、何気ないことにも「落胆ἐγκακέω」する。ἐγκακέωは「やる気を失う、諦める」の意である。老いの中では小さな「落胆ἐγκακέω」が生きる力を奪うことも少なくない。
エペソでのパウロの宣教はイエスの福音を異邦人の間に力強く広めたが、それに反対するユダヤ人に激しい反発を引き起こし、パウロついには捕らえられて投獄される。(使徒19章、21:27-28:31) しかし、パウロは「あなたがたのためにわたしが受けている患難」は「あなたがたの光栄なのである」、だからわたしは落胆しない、それで「あなたがも落胆しないでいてもらいたい」と書き送るのである。(エペソ3:13) 患難を「栄光」と受け取る人は決して落胆しない。
(心のデボーション3760)
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