心のデボーション3731
「われを愛する者は我これを愛す 我を切に求むるものは我に遇ん」 箴言8:17 明治元訳聖書
「わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」 口語訳聖書
「会者定離と離者定会」
「会者定離(えしゃじょうり)」は「会うものは必ず別れる定めにある」の意。だが、「会者定離」は「離者定会」でもあろう。別れは新しい出会いをもたらす。人は最後まで新しい出会いに生きる。
智慧は「わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会うἐμὲ ζητοῦντες εὑρήσουσιν」と語る。(箴言8:17)
(心のデボーション3731)
心のデボーション3732
「言語(ことば)を出して時に適うはいかに善(よ)からずや」 箴言15:23 明治元訳聖書
「人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。」 口語訳聖書
「愚痴」
愚痴をあまり真剣に聞くと失敗する。愚痴は、ただ聞いてもらいたいだけの話が多いからである。しかし、だからといっていいかげんな態度で聞いて良いものでもない。相手はそんな話にも相づちを打ってほしい。どうやら、愚痴というのはババ抜きのようなもので、早く渡してしまった方が勝ちのようだ。愚痴にも「時宜にかなった」良い返事をしてくれる人は大切にしなければならない。
(心のデボーション3732)
心のデボーション3733
「その心に虚偽をたもち 常に惡をはかり 爭端を起す」 箴言6:14 明治元訳聖書
「よこしまな心をもって悪を計り、絶えず争いをおこす。」 口語訳聖書
「鷸蚌(いっぽう)の争い」
「鷸蚌(いっぽう)の争い」は、「鷸(しぎ)」が「蚌(はまぐり)」を食おうとすれば、嘴を蚌に挟まれ、共に逃げられなくなったところを、鷸蚌共に漁師に捕らえられるの喩えから「無益な争い」の意。「漁夫の利」ともいう。
絶えず起こる争いの多くはこれかもしれない。
「よこしまな心をもって悪を計り、絶えず争いをおこす。」のLXXは「διεστραμμένῃ δὲ καρδίᾳ τεκταίνεται κακὰ ἐν παντὶ καιρῷ ὁ τοιοῦτος ταραχὰς συνίστησιν πόλει (ひねくれた心で常に悪をたくらみ、その町に争いをおこす)」と訳す。よこしまな心(διαστρέφω)の引き起こす争いは町全体を巻き込む。(箴言6:14)
(心のデボーション3733)
心のデボーション3734
「願くはいつはりの道をわれより遠ざけ なんぢの法をもて我をめぐみたまへ」 詩篇119:29 明治元訳聖書
「偽りの道をわたしから遠ざけ、あなたのおきてをねんごろに教えてください。」 口語訳聖書
「偽りの道」
いつも「~のために」という人生を選んできた人がいた。愛する人がいても、その人のためにならないという理由で結婚をあきらめ、別の人と結婚した。子育てが終わってからは、ボランティアに励んだ。そして、彼女は50歳になって、「何かが間違っていた」と気づく。「人」という字と「為」という字をくっつけた「偽」という字になるという新聞の記事が彼女の胸にささったのである。
「偽りの道δὸν ἀδικίας」は「不正の道」の意である。(詩篇119:29)
(心のデボーション3734)
心のデボーション3735
「ただしき者よヱホバを喜びたのしめ 凡てこころの直きものよ喜びよばふべし」 詩篇32:11 明治元訳聖書
「正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。」 口語訳聖書
「自己嫌悪」
「矛盾。われわれの存在を軽んずること、つまらぬもののために死ぬこと、われわれの存在にたいする嫌悪」(パスカル「パンセ」157) 存在への嫌悪は不信仰にはじまる。創造の神への不信頼。
「心の直き者οἱ εὐθεῖς τῇ καρδίᾳ」とは「心の真直ぐな者、素直な者」の意。存在に対する嫌悪からの解放は神の前に立つしかない。(詩篇32:11)
(心のデボーション3735)
心のデボーション3736
「われ二心のものをにくみ汝のおきてを愛しむ」 詩篇119:113 明治元訳聖書
「わたしは二心の者を憎みます。しかしあなたのおきてを愛します。」 口語訳聖書
「三つの災い」
「ものおじする心、無気力な手、二股をかける罪人は災いだ。 」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:12 フランシスコ会訳聖書)「ものおじする心καρδίαις δειλαῖς」は「奴隷(δοῦλος)の心」の意。 「無気力χερσὶν παρειμέναις」は「παρίημι垂れ下がった手」で「見過ごす、見失う、やり過ごす、怠る」の意。手を垂れて、望むことをやり過ごす心である。「二股をかける罪人ἁμαρτωλῷ ἐπιβαίνοντι ἐπὶ δύο τρίβους」は「二つの道に足を踏み入れる罪人」の意。
(心のデボーション3736)
心のデボーション3737
「我と偕に居る者みな汝に安否を問ふ。信仰に在りて我らを愛する者に安否を問へ。 願はくは御惠、なんぢら凡ての者と偕にあらん事を。」 テトス3:15 大正文語訳聖書
「わたしと共にいる一同の者から、あなたによろしく。わたしたちを愛している信徒たちに、よろしく。恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」 口語訳聖書
「信仰の友」
パウロはたくさんの「信仰の友」をもっていた。いつも、彼らを気づかい、あいさつを送り、祈る。「信仰の友」はパウロの支えでもあった。「友φίλος」は「愛」とも訳せることばである。年をとったら、友を見出すことをはじめなければならない。しかし、人は生きてきたようにしか出会わない。「友」は自分自身である。(テトス3:15)
(心のデボーション3737)
心のデボーション3738
「死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある」 Ⅰコリント15:55 大正文語訳聖書
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」 口語訳聖書
「死は勝利にのまれ」
モンテーニュは「われわれは事情が許す限り、いつでも靴をはいて出かける用意をしていなければならない」として、自身は「私は瞬間ごとに自分から抜け出て行くような気がしている」と書く。(モンテーニュ「エセー」より)死がある限り、やるべきことのない人生はないし、やるべきことのない瞬間なども存在しない。
「死」は意識されることによって生に「飲み込まれるκαταπίνω(飲み干す、食い尽くされる)。(Ⅰコリント15:55)
(心のデボーション3738)
心のデボーション3739
「誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一點、一畫も廢ることなく、ことごとく全うせらるべし」 マタイ5:18 大正文語訳聖書
「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」 口語訳聖書
「されど律法の一畫の落つるよりも、天地の過ぎ往くは易し」 ルカ16:17 大正文語訳聖書
「天と地」
現代、我々の心には「天と地は滅びるかもしれない」という不安が広がっている。しかし、神の言葉が失われない限り、「天と地」も失われることはない。
(心のデボーション3739)
心のデボーション3740
「御前にて潔く瑕なからしめん爲に、世の創の前より我等をキリストの中に選び、」 エペソ1:4 大正文語訳聖書
「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、」 口語訳聖書
「私という存在」
「キリストにあってわたしたちを選び」(エペソ1:4) 「選びἐκλέγω」は「引き抜く」の意。神は沢山ある中から一つを「天地の造られる前から、キリストにあって ἐν αὐτῷ πρὸ καταβολῆς κόσμου 」、「私」として選抜(ἐκλέγω)された。
(心のデボーション3740)
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