心のデボーション3711
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」 口語訳聖書
「昔の人々」
「昔の人々に目を留めて、よく見よ。主に寄り頼んで失望した者があおるか。主を絶えず畏れて、見捨てられた者があろうか。主に呼びかけて、軽んじられた者があろうか。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:10 フランシスコ会訳聖書) 過去(ἐν καιρῷ)は常に現在へのメッセージに満ちている。過去を顧みない者は現在を失い、そして未来を失う。しかし、過去からのメッセージを読み違える者はさらなる喪失を味わうだろう。(伝道3:11)
(心のデボーション3711)
心のデボーション3712
「望ある間に汝の子を打て これを殺すこころを起すなかれ」 箴言19:18 明治元訳聖書
「望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。」 口語訳聖書
「子殺し、親殺し」
親には、我が子を殺してしまいたいという魔の瞬間があるのではないか。子どもは自立の過程で、親と精神的な殺しあいをするのである。殺しあいを演じながら、お互いが共に生きていく関係をさぐる。相手に殺され死んではいけないし、相手を殺して死なせてもいけない。(箴言19:18)深い傷を負いながらも、関係を切らないできる方法を見つけていくことが、新しい親子関係であろう。
我が子を「滅ぼす心ὓβρις」は「侮辱する、暴力を加える、傷を負わず」の意である。
(心のデボーション3712)
心のデボ心のデボーション3713
「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」 口語訳聖書
「因循姑息」
因循姑息(いんじゅんこそく)は明治4年の断髪脱刀勝手令により、それまでの丁髷から洋風な散髪に移行する中で流行った、「半髪頭(丁髷)をたたいて見れば、因循姑息の音がする」に始まり「散切頭をたたいて見れば、文明開化の音がする」に終わる都都逸にある。「因循姑息」は新しい時代に馴染めず、古い習慣にとどまろうとする中途半端な様をさす。時代は常に変化していく。即座に馴染めない心を抱きつつ因循姑息に生きるのもよい。
「天が下のすべての事には季節(χρόνος)があり、すべてのわざには時(καιρός)がある」(伝道3:1)
(心のデボーション3713)
心のデボーション3714
「傳道者は務めて佳美き言詞を求めたり その書しるしたる者は正直して眞實の言語なり」 伝道12:10 明治元訳聖書
「伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。」 口語訳聖書
「適切な言葉」
苦しみは言葉にしてみる。「適切な言葉」を見つけることができれば苦しみは耐えやすくなる。言葉を見つけるのは自分自身でなければならない。なぜなら、それは意味を見つける作業だからである。意味は苦しんでいる自分の中にあり、その都度見つけなければならないのである。そして、言葉は「正しく書き残す(γράφω)」がよい。言葉は書き残されることによって語り始めるものだからである。(伝道12:10)
(心のデボーション3714)
心のデボーション3715
「我虚誕とつれだちて歩みし事ありや わが足虚僞に奔從がひし事ありや」 ヨブ31:5 明治元訳聖書
「もし、わたしがうそと共に歩み、/わたしの足が偽りにむかって/急いだことがあるなら、」 口語訳聖書
「虚誕」
ヨブは「わたしがうそと共に歩み、わたしの足が偽りにむかって急いだことがあるなら、正しいはかりをもってわたしを量れ」と自らの潔白を訴える。(ヨブ31:5-6) 「うそ」を明治元訳聖書は「虚誕」と訳して「うそ」と読ませる。「虚誕」は「事実無根のことを大げさに言う」の虚妄、虚偽の意である。だが、神の前に虚誕徒と共でない者はいない。「うそLXXγελοιαστής」は「おどける、ふさけた」の意である。
(心のデボーション3715)
心のデボーション3716
「惡者の途は幽冥のごとし 彼らはその蹟くもののなになるを知ざるなり」 箴言4:19 明治元訳聖書
「悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。」 口語訳聖書
「つまずき」
悪しき者は暗闇を歩み、「何につまずくかを知らない」。だが、自らを正しいと信じる道もまた、自分が信じるものにつまずく。「つまずく」のLXXはπροσκόπτωで「ぶつかる、衝突する」の意。彼らは自らの暗闇の中で、いきない何かに激しくぶつかる。(箴言4:19)
(心のデボーション3716)
心のデボーション3717
「わが心生命を厭ふ 然ば我わが憂愁を包まず言あらはし わが魂神の苦きによりて語はん」 ヨブ10:1 明治元訳聖書
「わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、/わが魂の苦しみによって語ろう。」 口語訳聖書
「魂の苦味」
対話にならない会話がある。ことばが毒矢となって飛び交う。問題は、相手が自分と合うか合わないかではなく、その相手の心を開けるかどうかである。たとえ、毒矢が飛んできても、開かれた心にはめったに当たるものではない。心を開くとは、自分になることである。そうしていると、いつの間にか、「対話にならない会話」から「たましいの苦しみを語る対話」へと変わるようだ。ヨブは「わが魂の苦しみによって語ろうτὰ ῥήματά μου λαλήσω πικρίᾳ ψυχῆς μου συνεχόμενος」と告げる。(ヨブ10:1)「魂の苦しみπικρία」は「魂の苦味、辛棘」である。
(心のデボーション3717)
心のデボーション3718
「斯くのごとく汝らも己を罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在りて活きたる者と思ふべし。」 ロマ6:11 大正文語訳聖書
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」 口語訳聖書
「一炊の夢」
人生は「一炊の夢」という。立身出世の旅の途上で、唐の盧生は立ち寄った茶屋で道士呂翁から枕を借りる。夢に自分のあらゆる栄枯盛衰を見た後に、いよいよ命の尽きるところで目を覚ます。するとそれは茶屋でさきほどから炊いていた粟粥が炊き上がってもいないわずかな時間の出来事だと知り、人生のはかなさを悟る。(沈既済(しんきせい)の「枕中記」の故事)「一炊の夢」を生きてはなるまい。如何に出世するかではなく、如何に生きるかが人生である。キリスト者は「キリスト・イエスにあって神に生きている者ζῶντας δὲ τῶ θεῶ ἐν χριστῶ ἰησοῦ」である。(ロマ6:11)
(心のデボーション3718)
心のデボーション3719
「誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一點、一畫も廢ることなく、ことごとく全うせらるべし」 マタイ5:18 大正文語訳聖書
「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」 新共同訳聖書
「律法の一点」
ソロモンは近隣諸国と姻戚関係を結ぶため、それらの諸国から多くの妻、そばめを召し入れた。その数はⅠ列王記11:3に「700人の王妃としての妻と、300人のそばめ」と記録されている。
人々はソロモンが申命記17:17「妻を多くその身に有て心を迷すべからず」として、「ソロモンは יַרְבֶּה からy ヨードを取り除こうとしている」と非難した。יַרְבֶּה から י ヨードを取り除くと רַבָּה となり、「彼にとっては妻は多くいない」の意味になる。
律法の一点を取り除くだけで、正反対の意味になる。神の言葉に、一つを入れたり、除くだけで自分に都合よく変えることはできる。「律法の一點、一畫も廢ること」はない。
(心のデボーション3719)
心のデボーション3720
「薪なければ火はきえ 人の是非をいふ者なければ爭端はやむ」 箴言26:20 明治元訳聖書
「たきぎがなければ火は消え、人のよしあしを言う者がなければ争いはやむ。」 口語訳聖書
「たきぎがなければ」
「人のよしあしを言う(δίθυμος)」は「燃え上がる焚火」である。暖をとろうと多く者が集まる。だが、その火に温まる者は「争い」に巻き込まれる。(箴言26:20) 「争い」はは別のとこで発生し、知らず知らずのうちにその渦の中にいる。(詩篇1:1)
(心のデボーション3720)
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