心のデボーション371

デボーション1
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心のデボーション3701

「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり」 伝道3:11  明治元訳聖書

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」 口語訳聖書

 「烏兎匆匆」

月日のたつのが早いことを「烏兎匆匆(うとそうそう)」という。太陽には烏、月には兎の象があり、「匆匆」は、入れ替わりが「あわただしい」の意。

烏でも兎でも「神のなされることは皆その時にかなって美しいσὺν τὰ πάντα ἐποίησεν καλὰ ἐν καιρῷ αὐτοῦ」(伝道3:11) 「時にかなってσὺν」は「時と共にあって」である。」無為に見送ってはもったいない。

(心のデボーション3701)

心のデボーション3702

「わが霊魂は塵につきぬ なんぢの言にしたがひて我をいかしたまへ」 詩篇119:25  明治元訳聖書

「わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。」 口語訳聖書

 「土の器」

あるところに、貴いものは高価な器こそがふさわしいと信じる女がいた。そのテーブルに金の器に水が、土の器にブドー酒が入れてあるのを見て、ある人が「水は土の器に、ブドー酒は金の器に入れるべきではないか」と言った。しかし、女が助言に従うと、ブドー酒は土の器だからこそ呼吸ができたのに、金の器ではそれができず、味が落ち、帰宅した夫にしかられたということである。大切なのは自分という器(ἄγγος)に何がふさわしいかではなく、自分という器で何を生かせるかである。(詩篇119:25)

(心のデボーション3702)

心のデボーション3703

「また傳道者は智慧あるが故に恒に知識を民に敎へたり 彼は心をもちひて尋ね究め許多の箴言を作れり」 伝道12:9  明治元訳聖書

「さらに伝道者は知恵があるゆえに、知識を民に教えた。彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。」 口語訳聖書

 「浅き川も深く渡れ」

「浅き川も深く渡れ」は油断することなく行動せよとの意味であるが、「物事の浅きは深く、深きは浅く」とらえよとも読める。深さは浅きに、浅きに深みがある。伝道者は「よく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめたσὺν τὸν λαόν καὶ οὖς ἐξιχνιάσεται κόσμιον παραβολῶν」(伝道12:9)

(心のデボーション3703) 

心のデボーション3704

「人は籤をひく されど事をさだむるは全くヱホバにあり」 箴言16:33  明治元訳聖書

「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」 口語訳聖書

 「ヒョウタンとナマズ」

「ヒョウタンでナマズを押さえる」という。ヌルヌルをツルツルで押さえるのだから、つかみどころもない。カウンセリングの場面では、相手がナマズなら、こちらはヒョウタンでいくこともある。それではいつまでたってもらちが明かないではないかといわれそうだが、そうでもない。しばらくすると「ヒョウタンから駒」ということもあるのだ。「事を定めるのは全く主」である。κυρίου πάντα τὰ δίκαια」(箴言16:33)

(心のデボーション3704)

心のデボーション3705

「されど我らには神これを御靈によりて顯し給へり。御靈はすべての事を究め、神の深き所まで究むればなり。」 Ⅰコリント2:10  大正文語訳聖書

「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」 口語訳聖書

 「神の深み」

「祈禱のこころは誠実であらねばならぬと共にまた深くなくてはならぬ。…この深き消息に通ぜずしては、まことの祈りは口に出でない」(藤井武「信仰生活」より) 祈りにおいて人は神と共にある。祈禱の深みは神にあり、「神の深みτὰ βάθη τοῦ θεοῦ」に通じる。(Ⅰコリント2:10)

(心のデボーション3705)

心のデボーション3706

「ここに會衆おほいに亂れ、大方はその何のために集りたるかを知らずして、或者はこの事を、或者はかの事を叫びたり。」 使徒19:32  大正文語訳聖書

「中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。」 口語訳聖書

 「意馬心猿」

抑えがたい情動に心が乱れることを「意馬心猿(いばしんえん)」という。奔走する馬のように、騒ぎ立てる猿のように抑え難い。パウロたちの宣教によりイエスの福音が伝わると、エペソにあるアルテミス神殿で銀細工をつくる職人たちが騒ぎを起こした。混乱(συγχέω)は町中にひろがり、ついに「ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた」という事態に至った。(使徒19:23-40)意馬心猿は煩悩にだけ発生するのではなく、平時の民にも発生し、動乱にさえ膨れあがる。しかし、その場合でも、理由もなくどなりつづける意馬心猿はだれの心にも宿っていて、機会があれば目を覚ますのかもしれない。(使徒19:32)

(心のデボーション3706)

心のデボーション3707

「邪曲なる心ある者はさいはひを得ず その舌をみだりにする者はわざはひに陷る」 箴言17:20  明治元訳聖書

「曲った心の者はさいわいを得ない、みだりに舌をもって語る者は災に陥る。」 口語訳聖書

 「幸せをあきらめる人」

自分が幸せになることは相手が不幸になるという状況もある。こういう人は自分が幸せになるには、誰かが犠牲にならなければならないと考えている。そして、多分、この人は自分の幸せをあきらめるのである。問題はどちらを選ぶのが正しいかではなく、いつも、そういう人間関係を呼び込む心の営みである。幸せはあなたの内にあり、何かを犠牲にする必要などはない。

「曲がった心σκληροκάρδιος」は「心の頑ななこと、こわばった心」の意。(箴言17:20)

(心のデボーション3707)

心のデボーション3708

「わがうちに憂慮のみつる時 なんぢの安慰わがたましひを喜ばせたまふ」 詩篇94:19 明治元訳聖書

「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます」 口語訳聖書

 「思い煩いの満ちるとき」

「わたしのうちに思い煩いの満ちるときשַׂר‏ְעַפִּים」は「心騒ぐ時」の意。LXX ὀδύνηは「心に痛みに充ちる時」である。あなたがたは幸いである。「あなた(神)の慰めはわが魂を喜ばせる」からである。(詩篇94:19)

(心のデボーション3708)

心のデボーション3709

「神の子イエス、キリストの福音の始」 マルコ1:1 大正文語訳聖書

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書

 「はじまりの告知」

これは「神の子イエス・キリストの福音の始め᾽Αρχὴ τοῦ εὐαγγελίου ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ[υἱοῦ θεοῦ]」である。我らは「私の福音の始めεὐαγγέλιον」」として読むのである。イエスによって始まる「私」を読みたい。「福音」は私に訪れた「はじまり」の「はじめἀρχή 」である。(マルコ1:1)

(心のデボーション3709)

心のデボーション3710

「ヱホバよもろもろの天はなんぢの奇しき事跡をほめん なんぢの眞實もまた潔きものの會にてほめらるべし」  詩篇89:5  明治元訳聖書

「主よ、もろもろの天/にあなたのくすしきみわざをほめたたえさせ、聖なる者のつどいで、あなたのまことをほめたたえさせてください。」 口語訳聖書

 「雨夜の品定め」

人は集まると「雨夜の品定め」をよくやる。「雨夜の品定め」は夏の雨の夜に光源氏たちが集まり、交際する女性のあれこれを語り合ったことから、人の批評をすることの意である。(「源氏物語―帚木」)だが、雨の夜に友と語らうのは楽しい。

詩篇89:5「聖なるものの集いἐκκλησίᾳ ἁγίων」は後に教会(ἐκκλησία)と呼ばれる。(詩篇89:5)

(心のデボーション3710)

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