心のデボーション3671
「凡ての事に益おほし、先づ第一に彼らは神の言を委ねられたり。」 ロマ3:2 大正文語訳聖書
「それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。」 口語訳聖書
「第一に神のことば」
神の民に与えられた祝福は「いろいろの点で数多いπολὺ κατὰ πάντα τρόπον」が、その第一のものは「神の言が彼らにゆだねられたπρῶτον μὲν [γὰρ] ὅτι ἐπιστεύθησαν τὰ λόγια τοῦ θεοῦ」ことである。「委ねられたπιστεύω」は「信じる」の意である。(ロマ3:2)「主はそのみ言葉をヤコブに示し、そのもろもろの定めと、おきてとを/イスラエルに示される。」(詩篇147:19)
(心のデボーション3671)
心のデボーション3672
「石は重く沙は軽からず 然ど愚なる者の怒はこの二よりも重し」 箴言27:3 明治元訳聖書
「石は重く、砂も軽くはない、しかし愚かな者の怒りはこの二つよりも重い。」 口語訳聖書
「たまギレ」
何があってもキレない人よりも、たまにはキレる「たまギレ」の方が健全かもしれない。キレたら、言い訳も自己嫌悪もしないのが上手な「たまギレ」である。箴言は「愚か者の怒り」は石や砂の「どちらよりもずっしりと重い」と語る。怒りそのものが「愚か」なのではなく、怒りをことさらに重くしてしまうのが真の愚かである。たまにはキレることがあっても何とかやっていけるのは「重い愚か」ではない。
(心のデボーション3672)
心のデボーション3673
「然れば此等の事につきて何をか言はん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。」 ロマ8:31 大正文語訳聖書
「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」 口語訳聖書
「神がわたしたちの味方であるなら」
「もし、神がわたしたちの味方であるならεἰ ὁ θεὸς ὑπὲρ ἡμῶν(直訳「もし、神がわたしの為におられるならば」)」、何を恐れることがあるだろうか? (ロマ8:31)
(心のデボーション3673)
心のデボーション3674
「斯かる人は二心にして、凡てその歩むところの途定りなし。」 ヤコブ1:8 大正文語訳聖書
「そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」 口語訳聖書
「あだしことば」
相手に適当にあわせながら、自分のいいたいことだけを考えているという時もある。心は「二心」になっているのであろう。思いが他に移る「あだし心」であり、「あだしことば」が交わされる。聖書の「二心δίψυχος」は「二つのたましい」の意である。その反対は「愛」である。愛が欠けた時、実のない「あだしことば」が交わされるようになる。(ヤコブ1:8)
(心のデボーション3674)
心のデボーション3675
「惰者は途に獅あり 衢に獅ありといふ」 箴言26:13 明治元訳聖書
「なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。」 口語訳聖書
「現代の怠け者」
現代も「道に獅子が、広場に雄獅子が」(新共同訳聖書)と触れ回る「怠け者」がいる。彼らの言葉が作り話にすぎないことは道や広場に出てみればわかる。どれほどうまくできた話も本筋を見誤ると大変なことになる。現代の「怠け者」は情報ひとつで人間を操る。
(心のデボーション3675)
心のデボーション3676
「弟子はその師にまさらず、僕はその主にまさらず、」 マタイ10:24 大正文語訳聖書
「弟子は其師に優らず、僕は其主人に優らざるなり。」 口語訳聖書
「出藍」
筍況の言葉に「青は藍より出でて藍より青し」とある。南北朝時代に李謐という人居た。李謐は孔潘を師として学んだが、数年の後、師の孔潘は弟子の李謐の方が自分より学問が進んだと知ると、ためらうことなく、李謐の弟子になったという。真に優れてているのは、倦むことなく学び続け、弟子の李謐をも師とした孔潘であろう。李謐は永久に師(διδάσκαλος)である。(マタイ10:24)
(心のデボーション3676)
心のデボーション3677
「もし汝等おのおの心より兄弟を赦さずば、我が天の父も亦なんぢらに斯のごとく爲し給ふべし』」 マタイ18:35 大正文語訳聖書
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」 口語訳聖書
「愛の受容」
男は王から多額の借金を免除されたのに、その帰り道にわずかの金を貸した人に出会い、過酷な手段で取り立てようとした。自分は赦されても人への貸しを赦せないこの男を責めるのは容易い。貸しのある人に「もう憎んではいない」といえても、「愛します」とはいえないものだ。愛は赦しという奇蹟をおこす。赦したから愛せるのではなく、愛したから赦せるのである。
(心のデボーション3677)
心のデボーション3678
「讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて靈のもろもろの祝福をもて天の處にて我らを祝し、」 エペソ1:3 大正文語訳聖書
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、」 口語訳聖書
「天の霊的祝福」
「天の霊的祝福πάσῃ εὐλογίᾳ πνευματικῇ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις」は「靈のπνευματικός(霊的な、霊的な働きに属する、いのちのエネルギーの源)」への「祝福εὐλογέω (よき言葉、賛美、祝福)」である。いのちの祝福は天にあり、失われることはない。(エペソ1:3)
(心のデボーション3678)
心のデボーション3679
「われ律法また預言者を毀つために來れりと思ふな。毀たんとて來らず、反つて成就せん爲なり」 マタイ5:17 大正文語訳聖書
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」 新共同訳聖書
「サクラダ・ファミリア」
「石でできた聖書」と呼ばれるガウディの「サクラダ・ファミリア(カタルーニャ語: Temple Expiatori de la Sagrada Família 聖家族贖罪教会」は1882年に建設がはじまり、完成までに300年を要すといわれたが、近代的技術を投入した結果2026年には完成するという。144年で完成することになり、156年を短縮することになる。
人間の技術の成果を褒めるよりも、300年の計画から、これからの156年が失われたことを残念に思う。300年の計画の未だ132年の現在であり、168年の後に完成するものがあってもよい。
イエスは「律法の完成」のために来られたが、完成にはじまった新しい世界は未だ完成してはいない。
(心のデボーション3679)
心のデボーション3680
「視よ、われ報をもて速かに到らん、各人の行爲に隨ひて之を與ふべし。」 黙示22:12 大正文語訳聖書
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」 口語訳聖書
「報い」
「主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。お前たちの報いは、失われることはない。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:8 フランシスコ会訳聖書) 主を畏れよ。その信頼が報われずに失われることは決してない。「報いμισθός」は「賃金、労賃」の意。神は信頼に見合う賃金をお支払いくださる。(黙示22:12)
(心のデボーション3680)
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