「なんぢ心に罪人をうらやむ勿れ ただ終日ヱホバを畏れよ」 箴言23:17 明治元訳聖書
「心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。」 口語訳聖書
「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ」 新改訳聖書
אַל־יְקַנֵּ֣א לִ֭בְּךָ בַּֽחַטָּאִ֑ים כִּ֥י אִם־בְּיִרְאַת־יְ֝הוָ֗ה כָּל־הַיֹּֽום׃
μὴ ζηλούτω ἡ καρδία σου ἁμαρτωλούς ἀλλὰ ἐν φόβῳ κυρίου ἴσθι ὅλην τὴν ἡμέραν
「罪人へのねたみ」
「うらやむ anq」は「うらやむ」(口語訳)、「ねたむ」(新改訳)、「心を燃やす」(新共同訳)。(箴言23:17)LXXは μὴ ζηλούτω ἡ καρδία σου ἁμαρτωλούςで、「うらやむζηλόω」は「熱心である、熱求する、追い求める」で、直訳「心に罪人を熱望するなかれ」である。(箴言23:17)
人がうらやむような「罪人」とは、罪を犯しながらも気にもとめない者のことであろう。許せないのは彼が罪を犯した自身を知らない(知ろうとしない)ことである。自分を知らずに生きていくことである。それを箴言は「罪人へのねたみ」という。つまりは、「ねたみ」の正体は「自分を知らずに生きたい」という思いが私にもあるということか。
箴言3:31
אַל־תְּ֭קַנֵּא בְּאִ֣ישׁ חָמָ֑ס וְאַל־תִּ֝בְחַ֗ר בְּכָל־דְּרָכָֽיו׃
μὴ κτήσῃ κακῶν ἀνδρῶν ὀνείδη μηδὲ ζηλώσῃς τὰς ὁδοὺς αὐτῶν
口語訳聖書
暴虐な人を、うらやんではならない、そのすべての道を選んではならない。
箴言24:1
אַל־תְּ֭קַנֵּא בְּאַנְשֵׁ֣י רָעָ֑ה וְאַל־תִּתְאָו לִהְיֹ֥ות אִתָּֽם׃
υἱέ μὴ ζηλώσῃς κακοὺς ἄνδρας μηδὲ ἐπιθυμήσῃς εἶναι μετ᾽ αὐτῶν
口語訳聖書
悪を行う人をうらやんではならない、また彼らと共におることを願ってはならない。
心のデボーション0122
「汝らその住をりしエジプトの國に行はるる所の事等を傚ひ行ふべからずまた我が汝等を導きいたるカナンの國
におこなはるる所の事等を傚ひおこなふべからずまたその例に歩行べからず」 レビ記18:3 明治元訳聖書
「あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。」 口語訳聖書
「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない」 新共同訳聖書
כְּמַעֲשֵׂ֧ה אֶֽרֶץ־מִצְרַ֛יִם אֲשֶׁ֥ר יְשַׁבְתֶּם־בָּ֖הּ לֹ֣א תַעֲשׂ֑וּ וּכְמַעֲשֵׂ֣ה אֶֽרֶץ־כְּנַ֡עַן אֲשֶׁ֣ר אֲנִי֩ מֵבִ֨יא אֶתְכֶ֥ם שָׁ֙מָּה֙ לֹ֣א תַעֲשׂ֔וּ וּבְחֻקֹּתֵיהֶ֖ם לֹ֥א תֵלֵֽכוּ׃
κατὰ τὰ ἐπιτηδεύματα γῆς Αἰγύπτου ἐν ᾗ κατῳκήσατε ἐπ᾽ αὐτῇ οὐ ποιήσετε καὶ κατὰ τὰ ἐπιτηδεύματα γῆς Χανααν εἰς ἣν ἐγὼ εἰσάγω ὑμᾶς ἐκεῖ οὐ ποιήσετε καὶ τοῖς νομίμοις αὐτῶν οὐ πορεύσεσθε
「俑(ヨウ)を作る」
神はイスラエルの民に「あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。」とお命じになった。(レビ記18:3) 「習慣 מַעֲשֶׂה」は「働き、わざ、ならわし」の意。LXX ἐπιτήδευμαは「常に従事する仕事、生活習慣、風習」の意である。
中国では殷(いん)代から明代にわたって、死者と共に木製や土製の人形(=俑)を埋葬する風習があった。やがて、「俑(ヨウ)」は「殉死」という悪しき風習と結びつくようになった。孔子がこれを強く憎んだという故事から、善くないことを始めたり、悪例を作ったりすることを「俑(ヨウ)を作る」という。
エジプトやカナンの「風習」もまた「俑(ヨウ)」である。始まりは「善きもの」であるが、風習となるに及んで「俑(ヨウ)を作った」。「俑(ヨウ)」を破壊しても無駄である。「俑(ヨウ)」の内容が問題である。人が「俑(ヨウ)」をつくり、「俑(ヨウ)」が「俑(ヨウ)」を生み、そして「俑(ヨウ)」が人を作る。
詩篇106:34-36
口語訳聖書
彼らは主が命じられたもろもろの民を滅ぼさずかえってもろもろの国民とまじってそのわざにならい自分たちのわなとなった偶像に仕えた。
エセキエル20:7
口語訳聖書
わたしは彼らに言った、あなたがたは、おのおのその目を楽しませる憎むべきものを捨てよ。エジプトの偶像をもって、その身を汚すな。わたしはあなたがたの神、主であると。
心のデボーション0123
「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、 非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず」 Ⅰコリント13:4-5 大正文語訳聖書
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」 口語訳聖書
ἡ ἀγάπη μακροθυμεῖ, χρηστεύεται ἡ ἀγάπη, οὐ ζηλοῖ, [ἡ ἀγάπη] οὐ περπερεύεται, οὐ φυσιοῦται, οὐκ ἀσχημονεῖ, οὐ ζητεῖ τὰ ἑαυτῆς, οὐ παροξύνεται, οὐ λογίζεται τὸ κακόν,
「怨女曠夫(えんじょこうふ)」
愛は「恨みをいだかないοὐ λογίζεται τὸ κακό」(Ⅰコリント13:5) 直訳は「悪を思わず、悪のもくろみに加担せず」である。人から「恨み」を消すのは愛である。しかし、人はしばしば、愛にまつわる恨みを経験する。「怨女曠夫(えんじょこうふ)」は適齢期になって能力はあるのだが結婚していない独身男女を指す言葉で、「怨女」は夫がいなくて恨む女性、「曠夫」は妻をもてなくて恨みを抱く男性をさす。だが、結婚にかぎらず男も女も自分を嘆かないことだ。恨みはそれとは別のところから来るものだからである。
マルコ11:25
καὶ ὅταν στήκετε προσευχόμενοι, ἀφίετε εἴ τι ἔχετε κατά τινος, ἵνα καὶ ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς ἀφῇ ὑμῖν τὰ παραπτώματα ὑμῶν.
口語訳聖書
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
心のデボーション0124
「わが患難わが辛苦をかへりみ わがすべての罪をゆるしたまへ」 詩篇25:18 明治元訳聖書
「わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。」 口語訳聖書
「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください」 新共同訳聖書
רְאֵ֣ה עָ֭נְיִי וַעֲמָלִ֑י וְ֝שָׂ֗א לְכָל־חַטֹּאותָֽי׃
ἰδὲ τὴν ταπείνωσίν μου καὶ τὸν κόπον μου καὶ ἄφες πάσας τὰς ἁμαρτίας μου
「的外れ」
ヘブル語の「罪」は「חַטָּאת」は「罪、罪の贖いのためのいけにえ」を意味する。(詩篇25:18) 人は贖いのためのいけにえによって自らの罪を認識する。ギリシャ語で「罪」は「ἁμαρτία」で「的を外す」からくる言葉である。存在の的外れを「罪」と呼ぶ。しばしば、人は「罪」について「的外れ」な認識から、「的外れ」な悩みに苦しむことになる。いくら悔い改めても救われないのは、そのためである。「的外れ」な悩みは「的外れ」な「救い」を求める。(詩篇25:18)
詩篇51:7
הֵן־בְּעָו֥וֹן חוֹלָ֑לְתִּי וּ֝בְחֵ֗טְא יֶֽחֱמַ֥תְנִי אִמִּֽי׃
ῥαντιεῖς με ὑσσώπῳ καὶ καθαρισθήσομαι πλυνεῖς με καὶ ὑπὲρ χιόνα λευκανθήσομαι
口語訳聖書
ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
心のデボーション0125
「われ瞽者をその未だしらざる大路にゆかしめ その未だしらざる徑をふましめ 暗をその前に光となし 曲れるをその前になほくすべし 我これらの事をおこなひて彼らをすてじ」 イザヤ42:16 明治元訳聖書
「わたしは目しいを彼らのまだ知らない大路に行かせ、まだ知らない道に導き、暗きをその前に光とし、高低のある所を平らにする。わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。」 口語訳聖書
「目の見えな人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる」 新共同訳聖書
וְהוֹלַכְתִּ֣י עִוְרִ֗ים בְּדֶ֙רֶךְ֙ לֹ֣א יָדָ֔עוּ בִּנְתִיב֥וֹת לֹֽא־יָדְע֖וּ אַדְרִיכֵ֑ם אָשִׂים֩ מַחְשָׁ֨ךְ לִפְנֵיהֶ֜ם לָא֗וֹר וּמַֽעֲקַשִּׁים֙ לְמִישׁ֔וֹר אֵ֚לֶּה הַדְּבָרִ֔ים עֲשִׂיתִ֖ם וְלֹ֥א עֲזַבְתִּֽים׃
καὶ ἄξω τυφλοὺς ἐν ὁδῷ ᾗ οὐκ ἔγνωσαν καὶ τρίβους οὓς οὐκ ᾔδεισαν πατῆσαι ποιήσω αὐτούς ποιήσω αὐτοῖς τὸ σκότος εἰς φῶς καὶ τὰ σκολιὰ εἰς εὐθεῖαν ταῦτα τὰ ῥήματα ποιήσω καὶ οὐκ ἐγκαταλείψω αὐτούς
「未だしらざる大路」
目の不自由な者が「未だしらざる大路ὁδῷ ᾗ οὐκ ἔγνωσαν」を行く。彼は目が見えないが岩に足をとられることなく、穴にはまることもない。彼は「右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊にてかたる」(イザヤ30:21)を聞くからである。
「見えると言い張る者」には「未だ知らざる大路」が見えない。その耳に何が聞こえているのだろうか。
イザヤ29:18
וְשָׁמְע֧וּ בַיּוֹם־הַה֛וּא הַחֵרְשִׁ֖ים דִּבְרֵי־סֵ֑פֶר וּמֵאֹ֣פֶל וּמֵחֹ֔שֶׁךְ עֵינֵ֥י עִוְרִ֖ים תִּרְאֶֽינָה׃
καὶ ἀκούσονται ἐν τῇ ἡμέρᾳ ἐκείνῃ κωφοὶ λόγους βιβλίου καὶ οἱ ἐν τῷ σκότει καὶ οἱ ἐν τῇ ὁμίχλῃ ὀφθαλμοὶ τυφλῶν βλέψονται
口語訳聖書
その日、耳しいは書物の言葉を聞き、目しいの目はその暗やみから、見ることができる。
イザヤ30:21
וְאָזְנֶ֙יךָ֙ תִּשְׁמַ֣עְנָה דָבָ֔ר מֵֽאַחֲרֶ֖יךָ לֵאמֹ֑ר זֶ֤ה הַדֶּ֙רֶךְ֙ לְכ֣וּ ב֔וֹ כִּ֥י תַאֲמִ֖ינוּ וְכִ֥י תַשְׂמְאִֽילוּ׃
καὶ τὰ ὦτά σου ἀκούσονται τοὺς λόγους τῶν ὀπίσω σε πλανησάντων οἱ λέγοντες αὕτη ἡ ὁδός πορευθῶμεν ἐν αὐτῇ εἴτε δεξιὰ εἴτε ἀριστερά
口語訳聖書
また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
心のデボーション0126
「なんぢ御言を宣傳へよ、機を得るも機を得ざるも常に勵め、寛容と教誨とを盡して責め、戒め、勸めよ」 Ⅱテモテ4:2 大正文語訳聖書
「 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」 口語訳聖書
「みことばを述べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」 新改訳聖書
κήρυξον τὸν λόγον, ἐπίστηθι εὐκαίρως ἀκαίρως, ἔλεγξον, ἐπιτίμησον, παρακάλεσον, ἐν πάσῃ μακροθυμίᾳ καὶ διδαχῇ.
「機を得るも機を得ざるも」
神学校で先輩から「出される食事と頼まれる説教はことわるな」と教えられた。だが、食事時に訪問すればあらぬ疑いをかけられるように、時を無視した説教が喜ばれることもない。
「機を得る」に時があり、「機を得ざる」に時がある。
時が「良くてもεὐκαίρως(うまいぐわい、都合がよい)」ても、「悪くἀκαίρως(機会がない、時が悪い)」ても、御言葉を宣べ伝えよ。(Ⅱテモテ4:2) εὐκαίρωςは「εὖよい+καιρός時」で、「時期を得た」の意。ἀκαίρωςは「ἀ否定+καιρός時」で、「時期を得ない」の意。英語訳 be instant in season, out of season(King James Version)である。
使徒20:7
ἐν δὲ τῇ μιᾷ τῶν σαββάτων συνηγμένων ἡμῶν κλάσαι ἄρτον ὁ παῦλος διελέγετο αὐτοῖς, μέλλων ἐξιέναι τῇ ἐπαύριον, παρέτεινέν τε τὸν λόγον μέχρι μεσονυκτίου.
口語訳聖書
週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
心のデボーション0127
「なんぢの耳をかたぶけて速かにわれをすくひたまへ 願くはわがためにかたき磐となり我をすくふ保障(まもり)の家となりたまへ」 詩篇31:2 明治元訳聖書
「あなたの耳をわたしに傾けて、すみやかにわたしをお救いください。わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。」 口語訳聖書
「私の身を隠す岩となり、逃れの固き城となられよ」 バルバロ訳聖書
「砦の岩、城塞となってお救いください」 新共同訳聖書
בְּךָ֖ יְהוָ֣ה חָ֭סִיתִי אַל־אֵב֣וֹשָׁה לְעוֹלָ֑ם בְּצִדְקָתְךָ֥ פַלְּטֵֽנִי׃
κλῖνον πρός με τὸ οὖς σου τάχυνον τοῦ ἐξελέσθαι με γενοῦ μοι εἰς θεὸν ὑπερασπιστὴν καὶ εἰς οἶκον καταφυγῆς τοῦ σῶσαί μεLXX詩篇30:3
「セラマレコテ(逃岩)」
ダビデはサウルと兵に追跡されマオンの荒野に逃れた。ダビデの隠れる岩場を追手の兵たちが囲んだ。だがそのときサウルのもとに使者が来てペリシテ人の侵入を告げた。それでサウルは急いで兵を引き返し、ダビデは難を逃れた。ダビデはその場所を「セラマレコテ(逃岩)סלַע הַמַּחְלְקוֹת」と呼んだ。(Ⅰサムエル23:28)「セラマレコテ(明治元訳聖書「逃岩(逃れ岩)」口語訳聖書「逃れの岩」、新改訳聖書「仕切りの岩」、フランシスコ会訳聖「引き分けの岩」 LXXΠέτρα ἡ μερισθεῖσα「分割の岩」) King James Version my strong rock New King James Version my rock of refuge」では、追われる者は守られ、追う者は追われる者になる。
詩篇18:1-3
口語訳聖書
わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらですわたしはほめまつるべき主に呼ばわってわたしの敵から救われるのです。
心のデボーション0128
「凡ての善き賜物と凡ての全き賜物とは、上より、もろもろの光の父より降るなり。父は變ることなく、また囘轉の影もなき者なり」 ヤコブ1:17 大正文語訳聖書
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」 口語訳聖書
「父には移り変わりや、移り行く影はありません」 新改訳聖書
πᾶσα δόσις ἀγαθὴ καὶ πᾶν δώρημα τέλειον ἄνωθέν ἐστιν, καταβαῖνον ἀπὸ τοῦ πατρὸς τῶν φώτων, παρ᾽ ᾧ οὐκ ἔνι παραλλαγὴ ἢ τροπῆς ἀποσκίασμα.
「十二時虫」
中国に一日十二回体の色を変えるトカゲがおり、「十二時虫」と呼ばれる。(「易」という漢字は十二時虫の象形文字とされる。しかし、そういうトカゲがいるのか定かではない)一日は十二刻であったことから、「十二時虫」は一刻ごとに、変化にあわせて体の色を変えたのである。
時の変化に応じて自らを変えることができなければ、変わらぬものを手にすることはできない。だが、「十二時虫」の元の色はどんなものか知りたい気もする。
「父には、変化とか回転の影とかいうものはない。ἀπὸ τοῦ πατρὸς τῶν φώτων, παρ᾽ ᾧ οὐκ ἔνι παραλλαγὴ ἢ τροπῆς ἀποσκίασμα.」 「光の父なる神」には「παραλλαγη移り変わり」も「ἀποσκίασμα移り変わりの陰」もない。(ヤコブ1:17)
マラキ3:6
כִּ֛י אֲנִ֥י יְהוָ֖ה לֹ֣א שָׁנִ֑יתִי וְאַתֶּ֥ם בְּנֵֽי־יַעֲקֹ֖ב לֹ֥א כְלִיתֶֽם׃
διότι ἐγὼ κύριος ὁ θεὸς ὑμῶν καὶ οὐκ ἠλλοίωμαι καὶ ὑμεῖς υἱοὶ Ιακωβ οὐκ ἀπέχεσθε
口語訳聖書
主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。
心のデボーション0129
「言を寡くする者は知識あり 心の靜なる者は哲人なり」 箴言17:27 明治元訳聖書
「言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。」 口語訳聖書
「口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある」 新共同訳聖書
חֹושֵׂ֣ךְ אֲ֭מָרָיו יֹודֵ֣עַ דָּ֑עַת וְקַר ר֝֗וּחַ אִ֣ישׁ תְּבוּנָֽה׃
ὃς φείδεται ῥῆμα προέσθαι σκληρόν ἐπιγνώμων μακρόθυμος δὲ ἀνὴρ φρόνιμος
「神は人の奥底を証しする方、心の極みを見張る力」 知恵の書1:6(フランシスコ会訳)
「人の奥底」
「神は人の奥底を証しする方、心の極みを見張る力、舌の語るところに耳をそばだてる方である。τῶν νεφρῶν αὐτοῦ μάρτυς ὁ θεὸς καὶ τῆς καρδίας αὐτοῦ ἐπίσκοπος ἀληθὴς καὶ τῆς γλώσσης ἀκουστής 」(旧約聖書外典知恵の書1:6(フランシスコ会訳) 「奥底νέφρος」の直訳は「腎臓」で、感情や意志の源を意味する(フランシスコ会訳 注解)
神は私の奥底を見、その極みを見張られる。私は一人ではない。神が共におられるならば、私は感情と意志の奥底に耐えよう。
箴言16:32
טֹ֤וב אֶ֣רֶךְ אַ֭פַּיִם מִגִּבֹּ֑ור וּמֹשֵׁ֥ל בְּ֝רוּחֹ֗ו מִלֹּכֵ֥ד עִֽיר׃
κρείσσων ἀνὴρ μακρόθυμος ἰσχυροῦ ὁ δὲ κρατῶν ὀργῆς κρείσσων καταλαμβανομένου πόλιν
口語訳聖書
怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。
心のデボーション0130
「われは貧しくして乏し わが心うちにて傷をうく」 詩篇109:22 明治元訳聖書
「わたしは貧しく、かつ乏しいのです。わたしの心はわがうちに傷ついています。」 口語訳聖書
「私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています」 新改訳聖書
כִּֽי־עָנִ֣י וְאֶבְי֣וֹן אָנֹ֑כִי וְ֝לִבִּ֗י חָלַ֥ל בְּקִרְבִּֽי׃
ῥῦσαί με ὅτι πτωχὸς καὶ πένης ἐγώ εἰμι καὶ ἡ καρδία μου τετάρακται ἐντός μου
「傷つかない関係」
相手と深くかかわらなくてよいなら、傷つかなくてもすむ。だが、傷つかない関係から生まれるものを関係とは言えない。もし、関係が傷つくなら、関係自身がその傷を癒すまで待てばよい。それで、関係が回復して訪ねてきたら、傷ついた心で迎えないことだ。
「傷ついているτεταραγμένω」は「混乱している、雑然としている」の意。「心の傷」は心の混乱から来ている。
詩篇40:17
יָ֘שִׂ֤ישׂוּ וְיִשְׂמְח֨וּ׀ בְּךָ֗ כָּֽל־מְבַ֫קְשֶׁ֥יךָ יֹאמְר֣וּ תָ֭מִיד יִגְדַּ֣ל יְהוָ֑ה אֹֽ֝הֲבֵ֗י תְּשׁוּעָתֶֽךָ׃
ἐγὼ δὲ πτωχός εἰμι καὶ πένης κύριος φροντιεῖ μου βοηθός μου καὶ ὑπερασπιστής μου σὺ εἶ ὁ θεός μου μὴ χρονίσῃς LXX詩篇39:18
口語訳聖書
わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。
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