心のデボーション3641
「榮譽の愚なる者に適はざるは夏の時に雪ふり 穡收の時に雨ふるがごとし」 箴言26:1 明治元訳聖書
「誉が愚かな者にふさわしくないのは、夏に雪が降り、刈入れの時に雨が降るようなものだ。」 口語訳聖書
「夏に降る雪」
愚かな者に与えられる栄誉は、「夏に雪が降り、刈入れの時に雨が降る」ように、驚きではあっても、不都合でしかない。Today’s English Versionは「Praise for a fool is out of place(愚か者に栄誉は似合わない)」と訳す。それを与えられた者は、自分はそれにふさわしいと錯覚し、「愚かさ」に新たな愚かさを加える。
(心のデボーション3641)
心のデボーション3642
「エサウ目をあげて婦人と子等を見ていひけるは是等の汝とともなる者は誰なるやヤコブいひけるは神が僕に授たまひし子なりと」 創世記33:5 明治元訳聖書
「エサウは目をあげて女と子供たちを見て言った、「あなたと一緒にいるこれらの者はだれですか」。ヤコブは言った、「神がしもべに授けられた子供たちです」。」 口語訳聖書
「アビューズ」
「虐待」を意味する「abuseアビューズ」は、「ab離れて」と「use使う」ということばを組み合わせてできた言葉である。「虐待」は親が子どもを本来の目的から離れて使う行為である。人には自分が果たせなかった夢があり、それを自分の子どもを使って実現しようというのも一種の「虐待」である。性的虐待は子どもを「離れた目的のために使う」最もいまわしい行為である。虐待する人は「私の子どもなのだから、何をしても自由」と主張する。子どもは「神が恵み(ἐλεέω)によって、人に授けられた子どもたちτὰ παιδία οἷς ἠλέησεν ὁ θεὸς τὸν παῖδά σου」である。(創世記33:5)
(心のデボーション3642)
心のデボーション3643
「愚なる者の痴にしたがひて答ふること勿れ 恐くはおのれも是と同じからん」 箴言26:4 明治元訳聖書
「愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、自分も彼と同じようにならないためだ。」 口語訳聖書
「愚かさにふさわしい答」
「愚かな者(μωρός)にその愚かさにしたがって答をするな」(箴言26:4) 「朱に交われば赤くなる(「近墨必緇、近朱必赤」)」のたとえもある。箴言26:4に続き:5には「愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ」と勧められる。新共同訳聖書は「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ」と訳される。真の知恵は愚かさへの誠実な応答を知っている。
(心のデボーション3643)
心のデボーション3644
「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」 マタイ5:5 大正文語訳聖書
「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」 口語訳聖書
「◯◯ちゃんが欲しい」
「◯◯ちゃんが欲しい」という子どもの遊びがあります。二列になって向き合い、横一列で手をつなぎ「◯◯ちゃんが欲しい」と押し寄せ「◯◯ちゃんじゃわからん」と押し返す。最後はジャンケンで決める。自分を「欲しい」と指名される嬉しさと、手放すまいとする仲間のありがたさを味わえる。ついに指名されなかった子どもも、最後には全員から「◯◯ちゃんが欲しい」と呼んでもらえる。ファミコンより、よほど人間関係を学べる遊びではないか。
(心のデボーション3644)
心のデボーション3645
「なんぢ右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊にてかたるをきかん」 イザヤ30:21 明治元訳聖書
「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。」 口語訳聖書
「道をまっすぐにし」
「主に寄り頼め。主はお前を助けてくださるだろう。お前の道をまっずぐにし、主に希望せよ。πίστευσον αὐτῷ, καὶ ἀντιλήμψεταί σου· εὔθυνον τὰς ὁδούς σου καὶ ἔλπισον ἐπ’ αὐτόν.」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵 フランシスコ会訳聖書)「お前の道をまっずぐにしεὐθύνω」は「導く、船の舵をとる」の意。主に寄り頼め。主は正しい海路に舵をとってくださる。(イザヤ30:21)
(心のデボーション3645)
心のデボーション3646
「我らのために救の角を、 その僕ダビデの家に立て給へり。」 ルカ1:69 大正文語訳聖書
「わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。」 口語訳聖書
「救いの角」
神は「贖い」の為に「救の角を僕ダビデの家にお立てになった」(ルカ1:69) 「角κέρας」は力の象徴であり、神の救いの力強さをあらわす。Ⅱサムエル22:2-3には「主はわが岩、わが城、わたしを救うわが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、わが高きやぐら、わが避け所、わが救主。」と言われている。(詩篇18:2参照)
(心のデボーション3646)
心のデボーション3647
「鐵は鐵をとぐ 斯のごとくその友の面を研なり」 箴言27:17 明治文語訳聖書
「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」 口語訳聖書
「心の友」
自分でもわけのわからないうちに人との関係が壊れることもある。自分としては相手に尽くしてきたし、良いと思うことをしてきたつもりである。しかし、本当に相手のことがわかっていたのだろうか? 求めていたのは相手ではなくて、自分の感情を共有してくれることだけだったのかもしれない。人は友によって心が美しくとぎ澄まされる。それには、鉄と鉄がぶつかってとぎ澄ますようなふれあいが必要なのである。
(心のデボーション3647)
心のデボーション3648
「我魂よかれらの席にのぞむなかれ我寶よかれらの集會につらなるなかれ其は彼等その怒にまかせて人をころしその意にまかせて牛を筋截たればなり」 創世記49:6 明治元訳聖書
「わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。」 口語訳聖書
「わが宝」
「わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな」(創世記49:6)「わが栄えכּבוֹד」は「栄光、栄誉、魂、心」の意で、明治文語訳「我寶」、口語訳聖書「わが栄え」、新改訳聖書「わが心」と訳される。魂と心は「栄光、栄誉、富、宝、誉」である。暴虐の民の席につき、彼らの集会につらなるな。(創世記49:6)
(心のデボーション3648)
心のデボーション3649
「かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり」 マタイ5:16 大正文語訳聖書
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」 新改訳聖書
「糠星」
糠のようにこまかく見える小さな星を「糠星」という。しかし、糠星も闇夜に光れば「綺羅星」と呼ばれる。星にとっては自分が何と呼ばれるかは、あずかり知らぬことである。何と呼ばれようと「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。οὕτως λαμψάτω τὸ φῶς ὑμῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων」。そうすれば、人々は「あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめる」ようになる。(マタイ5:16)
(心のデボーション3649)
心のデボーション3650
「愚なる者に托して事を言おくる者はおのれの足をきり身に害をうく」 箴言26:6 明治元訳聖書
「愚かな者に託して事を言い送る者は、自分の足を切り去り、身に害をうける。」 口語訳聖書
「愚か者に託すな」
「愚かな者に託して事を言い送る(「ことずけする」新改訳聖書)」ことをしてはいけない。そのようなことをすると足元をくすわれる。ことを託して言い送るにふさわしい者を友とする人は幸いである。言い送った以上の善きものを得るだろう。(箴言26:6)
(心のデボーション3650)
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