心のデボーション364

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心のデボーション3631

「我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ。」 ガラテヤ1:10 大正文語訳聖書 

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」 口語訳聖書

 「歓心を得る」

「人の歓心を買うἀρέσκω」は「歓心を買う、喜ばす」の意。人に気に入られようとして、人の顔色を窺いさえするのに、どうして神に喜ばれることに無関心でいられるのか。まず、神に喜ばれる者であれ。そうすれば人に喜ばれる者となる。(ガリラヤ1:10)

(心のデボーション3631)

心のデボーション3632

「さらば何をか言はん、律法は罪なるか、決して然らず、律法に由らでは、われ罪を知らず、律法に『貪る勿れ』と言はずば、慳貪を知らざりき」 ロマ7:7  大正文語訳聖書

「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。」 口語訳聖書

 「その手は食わぬ」

ある日、タコが陸に上って昼寝をしていると、一匹の野良猫がやってきてタコの足を食べてしまった。野良猫が七本まで食べて満足し、前足で顔を洗っているとタコが目をさまし、せめて最後の一本の足で憎い野良猫をつかまえてぎゅっとしめてやりたいと思った。そこで「一本ばかり残さねえでみんな食ってくれ」と猫を誘うと、野良猫は「よせや、よさねえか、その手は食わぬ」と歌いながら行ってしまった。むさぼってもむさぼり尽くさない知恵というべきか。「むさぼりἐπιθυμία」は「欲望、貪欲、情欲」の意であり、野良猫の浅知恵くらいでは抑えられない。(ロマ7:7)

(心のデボーション3632)

心のデボーション3633

「わが兄弟よ若なんぢら各樣の試誘に遇ば之を喜ぶべき事とすべし」 ヤコブ1:2  大正文語訳聖書

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」 口語訳聖書

 「屈辱の炉」

「金は火で試されるが、主に喜ばれる人は、屈辱の炉で試される」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:5  フランシスコ会訳聖) 「屈辱の炉καμίνῳ ταπεινώσεως」。「屈辱ταπεινός」は「低い、貧しい、みすぼらしい」の意。人が身を低くし、へりくだる」ための「炉」である。へりくだる者はこの炉で焼き尽くされることはない。

(心のデボーション3633)

心のデボーション3634

「また汝の鄰の麥圃にいたる時汝手にてその穂を摘食ふも宜し然ど汝の鄰の麥圃に鎌をいるべからず」 申命記23:25  明治元訳聖書

「あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。」 口語訳聖書

 「ほどほど」

隣人の麦畑で穂を手で摘むのはいいが、かまを使ってはいけないと言われている。では、手とかまはどう違うのか。外国のスーパーで、チェリーを口にほうり込みながら袋に詰めている主婦を見かけることがある。そこではチェリーは山のように積み上げられ、客が好きなだけ袋に詰める。そこで味見をしながらというわけなのだろうが、床はあたり一面シェリーの種だらけで、足の踏み場もない。これは「手を使ってかまのように摘む」ことにならないだろうか。ほどほどというのはむずかいものだ。

(心のデボーション3634)

心のデボーション3635

「惡きものの謀略にあゆまず つみびとの途にたたず 嘲るものの座にすわらぬ者はさいはひなり」 詩篇1:1  明治元訳聖書

「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」 口語訳聖書

 「悪しき者のはかりごとに歩まず」

「悪しき者のはかりごとに歩まず」。(詩篇1:1)「悪しき者のはかりごと」は「悪しき者ἀσεβής(神への尊崇の欠如した者)」の「はかりごとβουλή(意思、意図、計画)」である。「歩まずπορεύομαι」は「進む、旅する(travel)」で、「悪しき者のはかりごとの旅」から離脱するの意である。

(心のデボーション3635)

心のデボーション3636

「キリスト・イエスの僕たる我ら、パウロとテモテと、書をピリピにをるキリスト・イエスに在る凡ての聖徒、および監督たちと執事たちとに贈る。」 ピリピ1:1  大正文語訳聖書

「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」 口語訳聖書

 「日本にいる」

本書は「ピリピにいるἐν φιλίπποις」とあり、ピリピに住む信徒たちに宛てられたパウロの書簡であることが分かる。(ピリピ1:1)人はみなそれぞれの所属する地を持つ。われらは「ἐν Ιαπωνία (日本にいる)」者としてパウロからの書簡を受けとり、読まねばならぬ。

(心のデボーション3636)

心のデボーション3637

「心のたのしみは良薬なり 霊魂のうれひは骨を枯す」 箴言17:22  明治元訳聖書

「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」 口語訳聖書

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」 新改訳聖書

 「陽気な心」

事故で足を失ったが、仲間にギブスを見せて「僕はクツ下を画びようで止められるんだぜ」と自慢した少年がいたという。この少年は「心が陽気」である。ここでいう「陽気」、「陰気」は性格の問題ではなく霊的な事柄である。「陽気な心καρδία εὐφραινομένη」とは魂が楽しんでいる人のことであり、「陰気な心」は魂が沈みこんでいるのである。沈みこんだ心は「陽気な心」に触れることによって明るさを取り戻す。「陽気なεὐφρὰινω」は「宴会での楽しみ」にもちいられることばで「喜ばせる、楽しませる」の意である。(箴言17:22)

(心のデボーション3637)

心のデボーション3638

「且もろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして、榮光を父なる神に歸せん爲なり。」 ピリピ2:11  大正文語訳聖書

「また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」 口語訳聖書

 「あらゆる舌によって」

「あらゆる舌が、イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する」(ピリピ2:11)「あらゆる舌πᾶσα γλῶσσα」は「すべての舌(言語、言葉)」である。バベルの塔をたてて天に届こうとした人類は神によって言葉を乱され、それぞれの言語を持った。そして今やイエス・キリストの福音によって「あらゆる舌(言語、言葉)」によって、「イエス・キリストは主である」と告白し賛美する時が来た。

(心のデボーション3638)

心のデボーション3639

「かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり」 マタイ5:16 大正文語訳聖書

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」 新改訳聖書

 「為すべき事」

「信念篤い人は、すべてそのなすべき事、先之を胸中に整理して、然して後外に実行する」(トマス・アケンピス 「基督のまねび」)

すべての「良き行為τὰ καλὰ ἔργα」は、胸中で思いの整理が先行する。「為すべき事」に思いを巡らせよ。「良き行為ἔργον」は「善き仕事(労働)、善き業、善き行動(行為)」である。「よき行為」を為す者は、「よき労働者」である。(マタイ5:16)

(心のデボーション3639)

心のデボーション3640

「ここにイエス彼に言ひ給ふ『なんぢの劍をもとに收めよ、すべて劍をとる者は劍にて亡ぶるなり。』」 マタイ26:52  大正文語訳聖書

「そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」 口語訳聖書

 「船大工の知恵」

「利益目あての欲望によって船は考え出され、船大工の知恵がそれを造りあげた。」(旧約聖書外典知恵の書14:2  フランシスコ会訳聖書)

文明の発展には人間の欲望が深く関わっている。莫大な富をもたらす航海のため造船技術は発展し、やがてそれは戦争に欠かせない軍船の建造に向かう。

アルフレッド・ノーベルはニトログリセリンの爆薬製造に道を開いた。爆薬が恐るべき武器に使用されることについて、「破壊の手段が恐るべきものになればんばなるほど、ひとは戦線布告の責任をとるのを避けるようになるだろう」と述べた。だが、ノーベルの期待は空しく、人間は人類を完全に殲滅する爆薬を造り、それをもって戦線布告をなすに至った。技術の発展は、今も平和と破壊のもろ刃の剣であることから抜け出すことができずにいる。「船大工の知恵」に「神の知恵」が加わる日はいつくるのだろうか?

(心のデボーション3640)

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