心のデボーション3621
「君の慈悲を求むる者はおほし 然れど人の事を定むるはヱホバによる」 箴言29:26 明治元訳聖書
「治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。」 口語訳聖書
「事を定める神」
人は良くしてもらおうと気遣う。しかし、「事を定める」のは主である。神はすべての事を「正しく決定מִשְׁפָּט」される。時を経て振り返れば、事を定められる神の妙にひれ伏すしかない。
(心のデボーション3621)
心のデボーション3622
「なんぢのわが心にあたへたまひし歓喜はかれらの穀物と酒との豊かなる時にまさりき」 詩篇4:7 明治元訳聖書
「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。」 口語訳聖書
「あきっぽい人」
何をやっても長続きしない、意志が弱くてあきっぽい。いや、私のことである。こういう性格はいくつになっても変わらない。開き直って、「変わるべきものでもない」と人にも語るが、実はあきらめている。あきっぽい人は、めげずに又、はじめる人でもある。ただ、その時は最初からやり直すのでなく、前回のつづきをすることにしている。前回の時点に直ちに戻れなければ、それが可能な時点まで戻って、そこから始めている。今はあきっぽい自分が前ほど嫌いではない。
(心のデボーション3622)
心のデボーション3623
「愚なる者はみづからその道を見て正しとす されど智慧ある者はすすめを容る 」 箴言12:15 明治元訳聖書
「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる」 口語訳聖書
「智慧の人」
「自分の目に正しく見える道」がすべて間違いで、「勧め」確かめもせずに「いれる人」が賢いとも言えない。「勧め」を「自分の目」で正しく見て、受け入れる人が知恵のある者であろう。
(心のデボーション3623)
心のデボーション3624
「されど足ることを知りて敬虔を守る者は、大なる利益を得るなり。」 Ⅰテモテ6:6 大正文語訳聖書
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」 口語訳聖書
「まあ、いいか」
「まあ、いいか」というのは、物事を少しばかり楽観的に処理したいときにでる言葉である。重箱に入った味噌をおたまですくうようなもので、四隅には取りきれない味噌が残っているが、大体とれれば「まあいいか」となる。状況によって「まあ、いいか」ができるのは心の健康な人なのだろう。だいたいのところで満足できれば「まあ、いい」。重箱の隅をつついても、まだ満足できないのは「敬虔」に欠けている。
「足ることを知るαὐτάρκεια」は「分に甘んじる」で「他人の世話にならずに独立して生きること」の意である。自身のことについて自身をもって生きる自立した人格である。(Ⅰテモテ6:6)
(心のデボーション3624)
心のデボーション3625
「かれらが呼ざるさきにわれこたへ 彼らが語りをへざるに我きかん」 イザヤ65:24 明治元訳聖書
「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」 口語訳聖書
「呼ばないさきに」
主は人が祈る先にこたえ、祈りの言葉がまだ終わらないのに思いのすべてを聞かれる。(イザヤ65:24)幼子が声をあげれば、母親は幼子が何を求め、何を必要としているかを直ちに知るように、神は祈りに応えられる。
(心のデボーション3625)
心のデボーション3626
「われ汝らに到るときは、キリストの滿ち足れる祝福をもて到らんことを知る。」 ロマ15:29 大正文語訳聖書
「そしてあなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと、信じている。」 口語訳聖書
「滿ちあふれる祝福をもって」
パウロは自分たちの到着は、「キリストの滿ち足れる祝福をもて到らんἐν πληρώματι εὐλογίας χριστοῦ ἐλεύσομαι」ことと確信した。(ロマ15:29)「滿ち足れるπλήρωμα」は「充填、充満」の意。キリスト者の訪れは、即、キリストの祝福をあますところなく充填し、充満する訪れである。
(心のデボーション3626)
心のデボーション3627
「イエス答へて言ひ給ふ『わが汝に何を爲さんことを望むか』盲人いふ『わが師よ、見えんことなり』」 マルコ10:51 大正文語訳聖書
「イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。」 口語訳聖書
「春琴抄」
『春琴抄』のお琴は賊に熱湯を浴びせられて顔が焼けただれてしまう。それを知った佐助は目に縫い針を突き刺し、自ら盲目になる。お琴は佐助に「見られること」を恐れ、佐助は醜くなったと心を閉ざすお琴を「見ること」を恐れるのである。しかし、醜さを「見ない」のが本当のやさしさだろうか? 谷崎潤一郎の『春琴抄』は人間の複雑な愛について語りかける。バルテマイにとっては、目を開いて、美しさも醜さも「見えるようになることἀναβλέπω」が救いであった。(マルコ10:51)
(心のデボーション3627)
心のデボーション3628
「今よりのち我なんぢらを僕といはず、僕は主人のなす事を知らざるなり。我なんぢらを友と呼べり、我が父に聽きし凡てのことを汝らに知らせたればなり。」 ヨハネ15:15 大正文語訳聖書
「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」 口語訳聖書
「友あり」
論語に有朋自遠方来、不二亦楽乎(朋有り遠方より来る、亦た楽しからずや)とある。「朋」は「志を同じくする者」の意である。主イエスは「あなたがたを(主人のしていることを知らない)僕(δοῦλος「奴隷」)とは呼ばない」、「わたしはあなたがたを(わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせた)友(φίλος「愛する者」)と呼んだ」と言われる。遠方より友来る、また楽しからずや。
(心のデボーション3628)
心のデボーション3629
「かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり」 マタイ5:16 大正文語訳聖書
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」 新改訳聖書
「灯火の光」
「人の前に輝かせοὕτως λαμψάτω τὸ φῶς ὑμῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων」と言われる(マタイ5:16)のは「灯火の光」である。この「光」は燃える火の輝きである。灯心を掻き立て、油を燃やせ。「愛するとは、尽きることのない油をもって照り輝くことだ」(リルケ 『リルケの言葉』)
(心のデボーション3629)
心のデボーション3630
「我らは己の事を宣べず、ただキリスト・イエスの主たる事と、我らがイエスのために汝らの僕たる事とを宣ぶ。」 Ⅱコリント4:5 大正文語訳聖書
「しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。」 口語訳聖書
「宣教」
「我らは己の事を宣べずοὐ γὰρ ἑαυτοὺς κηρύσσομεν」。(Ⅱコリント4:5) 証しは身に受けたイエス・キリストを証しする(κηρύσσω告知、知らせ、宣教)のであって、「己のことを宣べる(κηρύσσω告知、知らせ、宣教)」ことではない。
(心のデボーション3630)
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