心のデボーション3601
「この時よりイエス教を宣べはじめて言ひ給ふ『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』」 マタイ4:17 大正文語訳聖書
「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。」 口語訳聖書
「天国の希望」
「神の国は近づいたἤγγικεν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν」(マタイ4:17) 「近づいたἤγγικεν」は完了形で動作がすでに完了し、その結果が現在も継続している状態を示す。神の国は「近づいて、そこに来て、ずっとそこにある」の意味。天国はやがて行くところでも、後に来るものでもない。すでに、「今ここ」に現れ、到達している。私に到達したもうイエスに希望がある。
(心のデボーション3601)
心のデボーション3602
「いひけるはヱホバよ我決てこれを爲じ是は生命をかけて往し人の血なりと彼これを飮ことを好まざりき三勇士は是等の事を爲り」 Ⅱサムエル23:17 明治元訳聖書
「言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。」 口語訳聖書
「勇者」
三人の勇士はダビデのために、敵の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲んで来た。真の指導者は部下に高い目標を与える。しかし、それを与えたのは自分だなどと語らない。ダビデは「私はこの水を飲むことは絶対にできない」と地に注いでしまう。勇士に出会って、人は勇者になる。しかし、そのダビデも、ウリヤを敵陣に送って殺している。神の前にひれ伏す者こそが、真の勇者である。
(心のデボーション3602)
心のデボーション3603
「怒を遅くする者は大なる知識あり 氣の短き者は愚なることを顯す」 箴言14:29 明治元訳聖書
「怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。」 口語訳聖書
「気の短い者」
「気の短い者ὀλιγόψυχος」は「ὀλίγος小さい、乏しい+ψυχή魂、精神、心」からなり、「精神的力をわずかしか持たない無気力な者」の意。気の短さは、愚かさを隠せない。(箴言14:29)
(心のデボーション3603)
心のデボーション3604
「我なんぢらを遣して孤兒とはせず、汝らに來るなり」 ヨハネ14:18 大正文語訳聖書
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」 口語訳聖書
「トラウマ」
地が揺らぐことは、地震の多い日本ではよく知られている。しかし、想像を絶するような「揺れ」を経験した人は「地底にすさまじい悪意」のようなものを感じるそうである。それは、自分が限りなく「見捨てられる」という不気味な経験である。地震の後、その恐怖感や不安感が心の傷(トラウマ)となってさまざまな反応を引き起こす。イエスは心の傷に苦しむ者に、「わたしはあなたを捨てて孤児にはしない」といわれる。
(心のデボーション3604)
心のデボーション3605
「但し疑ふことなく、信仰をもて求むべし。疑ふ者は、風に動かされて翻へる海の波のごときなり。」 ヤコブ1:6 大正文語訳聖書
「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」 口語訳聖書
「疑う人」
信じたことは、疑うことなく信じよ。「疑うδιακρίνω」は「διά+κρίνω 離れさす」からきて、「分離する、分解する、疑う」の意で「自分自身の内で分離し、争う」ことである。神はそのような信仰におこたえにならない。(ヤコブ1:6,7)
(心のデボーション3605)
心のデボーション3606
「長たる者は善き業の懼にあらず、惡しき業の懼なり、なんぢ權威を懼れざらんとするか、善をなせ、然らば彼より譽を得ん。」 ロマ13:3 大正文語訳聖書
「いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。」 口語訳聖書
「支配者と民衆」
善事を褒め、悪事を行う者が畏怖するような支配者を擁する者は幸いである。不幸なのは善事を嗤い、悪事を擁護する支配者のつくりだす社会である。善きき民衆は善き支配者を生むとは限らない。悪しき支配者を望み、彼に力を与えるのもまた民衆である。
(心のデボーション3606)
心のデボーション3607
「我一口のパンを取來らん汝等心を慰めて然る後過ゆくべし汝等僕の所に來ればなり彼等言ふ汝が言るごとく爲せ」 創世記18:5 明治元訳聖書
「わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。」 口語訳聖書
「もてなし」
アブラハムは旅人の足を洗い、食べ物を運んでもてなす。(創世記18:5)「心を慰めסעד」は「心を支えて(回復して)」という意味で「疲れをいやして」である。もてなしとは、その人の心を支え力づけることである。心の回復を願う一杯の冷たい水、少しの食べ物が差し出される。もてなしを受ける側ばかりでなく、もてなす側の心も回復していくのが本当のもてなしである。
(心のデボーション3607)
心のデボーション3608
「是言は甚だ汝に近くして汝の口にあり汝の心にあれば汝これを行ふことを得べし」 申命記30:14 明治元訳聖書
「この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。」 口語訳聖書
「深淵」
「誰が、天の高さ、地の広さ、淵の深さを測り知ることができようか。ὕψος οὐρανοῦ καὶ πλάτος γῆς καὶ ἄβυσσον καὶ σοφίαν τίς ἐξιχνιάσει 」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:3 フランシスコ会訳聖書)「淵の深さἄβυσσος」は「底なしの深淵」、「地の奥底、海の深い淵」(申命記30:13)であり、驚くべき神の業がなされる所である。この深淵を覗く者は己が知恵に限りのあることを知る。知恵に限りあることを認識するのも知恵である。
(心のデボーション3608)
心のデボーション3609
「かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり」 マタイ5:16 大正文語訳聖書
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 口語訳聖書
「善き行為」
「人の前に」の「人」はギリシャ語「ἄνθρωπος」で「人間、人、人類」である。そして「あの人、この人、或る人、男、夫、妻」としての「人間」である。「光」を「関係」として存在する人に輝かすこと。それが「善き行為」といわれる。(マタイ5:16)
(心のデボーション3609)
心のデボーション3610
「されど我はヤコブの神をのべつたへん とこしへに讃うたはん」 詩篇75:9 明治元訳聖書
「しかしわたしはとこしえに喜び、ヤコブの神をほめうたいます。」 口語訳聖書
「ヤコブの神」
ヤコブは兄エソウとの確執から荒野に逃れ、石を枕に寝たが、神は夢に現れ、ヤコブを祝福された。(創世記28:10-15)「ヤコブの神θεὸς Ιακωβ」(詩篇75:9)は「決して見捨てない神」である。(神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エ3:6)である)
(心のデボーション3610)
コメント