心のデボーション334

デボーション1
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心のデボーション3331

「パウロ、シルワノ、テモテ、書を我らの父なる神および主イエス・キリストに在るテサロニケ人の教會に贈る。」 Ⅱテサロニケ1:1  大正文語訳聖書

「パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。」 口語訳聖書

 「神とキリストにあずかる」

「我らの父なる神および主イエス・キリストに在るテサロニケ人の教會ἐν θεῶ πατρὶ ἡμῶν καὶ κυρίῳ ἰησοῦ χριστῶ」。漢訳聖書 新約全書美華書店1863年は「在神我儕之父、與主耶蘇基督者」とする。「與」は「くみする」の意。ギリシャ語ἐνは「~の中に」である。教会は神とイエス・キリストの中に結ばれ、神とイエス・キリストにあずかる者たちの集まりである。

(心のデボーション3331)

心のデボーション3332

「此の如く人の子の來るも人を役ふ爲には非ず反て人に役はれ又おほくの人に代て生命を予その贖とならん爲なり」 マタイ20:28  大正文語訳聖書

「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」 口語訳聖書

 「嫁と姑」

「嫁と姑が一緒に暮らすのは、二匹の猫を一つのバックに入れるようなもの」という格言がある。「どうして」と反問するのはムダで、要するに合わないのだという。合わない間柄だからこそ、「仕える」ことに深い意味が生まれる。人生がそれを必要とするのは、仕えることによってしか身につかない品性があるからであろう。それを私は、キリストの品性と呼びたいと思う。

(心のデボーション3332)

心のデボーション3333

「モーセ、ヱホバにいひけるはわが主よ我は素言辭に敏き人にあらず汝が僕に語りたまへるに及びても猶しかり我は口重く舌重き者なり」 出エジプト4:10  明治元訳聖書

「モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。」 口語訳聖書

 「口重く、舌重き人」

「わたしは口も重く(ἰσχνόφωνος 吃音)、舌も重い(βραδύγλωσσος(舌が遅い)」。モーセは吃音があって滑らかに語る人ではなかったのかもしれない。しかし、神はモーセの口も重く(ἰσχνόφωνος 吃音)、舌も重い(βραδύγλωσσος(舌が遅い)を解決せずに、そのままモーセを用いられる。ἰσχνόφωνοςもβραδύγλωσσοςも、神の召しに何の問題にもならない。「それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」(出エジプト4:12  口語訳聖書)

(心のデボーション3333)

心のデボーション3334

「汝の心を敎に用ゐ 汝の耳を知識の言に傾けよ」 箴言23:12  明治元訳聖書

「あなたの心を教訓に用い、あなたの耳を知識の言葉に傾けよ。」 口語訳聖書

 「さえぎる心」

気がつくといつも、相手のことばをさえぎっていないだろうか。実はそうやって、自分の耳をふさごうとしいるのかもしれない。自分が最も聞きたくないことばや、ふれたくない感情に出会って、無意識のうちにそれをさえぎろうとしているのである。「知識のことば」は、しばしば、さえぎりたくなるようなことばの奥に隠されている。さえぎる心を取り除くことによって、人は自分自身の内に深く導かれ、自分をととのえていく。

(心のデボーション3334)

心のデボーション3335

「事毎に謙遜と柔和と寛容とを用ひ、愛をもて互に忍び」 エペソ4:2  大正文語訳聖書

「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、」 口語訳聖書

 「謙遜の限りをつくして」

「謙遜ταπεινοφροσύνη」は「ταπεινός低い+φρήν心、思い」からなり、「低く思う」の意である。ことごとに、「謙遜と柔和の限りを尽くし」(新改訳聖書)て歩め。そうすれば、「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(エペソ4:15)ことができる。(エペソ4:2)

(心のデボーション3335)

心のデボーション3336

「我らの救主なる神と我らの希望なるキリスト・イエスとの命によりて、キリスト・イエスの使徒となれるパウロ、」 Ⅰテモテ1:1  大正文語訳聖書

「わたしたちの救主なる神と、わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命によるキリスト・イエスの使徒パウロから、」 口語訳聖書

 「わたしたちの希望」

イエス・キリストは「我らの希望τῆς ἐλπίδος ἡμῶν」である。「希望ἐλπίς」は「霊的希望(メシアへの生きた希望)」である。(Ⅰペテロ1:3) 「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。ὃν οὐκ ἰδόντες ἀγαπᾶτε, εἰς ὃν ἄρτι μὴ ὁρῶντες πιστεύοντες δὲ ἀγαλλιᾶσθε χαρᾷ ἀνεκλαλήτῳ καὶ δεδοξασμένῃ,」(Ⅰペテロ1:8  口語訳聖書)「言葉につくせない(ἀνεκλάλητος言語に絶する)、輝きにみちた(δοξάζω栄光に満ちた)喜び」にあふれる希望である。(へブル10:23)

(心のデボーション3336)

心のデボーション3337

「これらの事はみな神より出づ、神はキリストによりて我らを己と和がしめ、かつ和がしむる職を我らに授け給へり。」 Ⅱコリント5:18  大正文語訳聖書

「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」 口語訳聖書

 「和解」

人を軽蔑することは罪である。では、自分をそまつに扱うのは罪ではないだろうか? 生身の自分が好きになれなくて、こんな自分はいなくてもいいと考えると、「今、ここに生きる」ことができなくなる。和解は心がふれ合うところからはじまる。「自分との和解」は、自分自身とあたたかくふれ合うことであり、世界と心をふれ合う基盤を創ることである。人は神と和解(καταλλάσσω)し、そして自分自身とも和解する。

(心のデボーション3337)

心のデボーション3338

「飽るものは蜂の蜜をも踐つく されど饑たる者には苦き物さへもすべて甘し」 箴言17:7  明治元訳聖書

「飽いている者は蜂蜜をも踏みつける、しかし飢えた者には苦い物でさえ、みな甘い。」 口語訳聖書

 「餓えた人」

「飽いている者(満腹している人)」は「蜜蜂の蜜」ですら足で踏みつけて見向きもしない。しかし、「餓えた人」には苦いものでも口に甘い。神の言葉に「飽きた」人には、もはや感動はなく、砂を噛むように感じられる。しかし「魂の餓えた人」はどのような辛い経験のなかにも御言葉に慰めと癒しといのちを見いだす。

(心のデボーション3338)

心のデボーション3339

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」 マタイ5:11 新共同訳聖書

「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、またあなたがたに対して偽りを言い、あらゆる悪口を言うとき、あなたがたは幸いである」 フランシスコ会訳聖書

 「偽りつつ逆らう」

「身に覚えのないあらゆる悪口πᾶν πονηρὸν καθ᾽ ὑμῶν [ψευδόμενοι]」は「偽りつつ逆らう」(永井訳)「いわれもない悪口」(フランシスコ会訳)、「ありもしないことで悪口を浴びせる」(新改訳)ことである。 追い出しにかかる者は「偽り」の理由をもっともらしくかかげてくる。「反対」と「偽り」は互いに引きつけ合い、接着すれば強い力になる。 「悪意ある言葉」には嘘が混じっている。だが、「イエス」の為になされるのであれば、それも「幸い」だという。(マタイ5:11)

(心のデボーション3339)

心のデボーション3340

「願くは汝ら全く默せよ 然するは汝らの智慧なるべし」 ヨブ13:5  明治元訳聖書

「どうか、あなたがたは全く沈黙するように。これがあなたがたの知恵であろう。」 口語訳聖書

 「助言」

ヨブは友人に沈黙するように求め、それが心悩む者への「知恵」だという。人に助言するときには「沈黙のうちに相手に聞く」ことができていなければならない。いたずらな助言は相手を傷つけるばかりである。「黙するκωφερῶLXX」は「κωφός聾の、物言わぬ」からきており、「口のきけない人のように黙る」の意である。(ヨブ13:5)

(心のデボーション3340)

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