心のデボーション3321
「キリスト・イエスの僕たる我ら、パウロとテモテと、書をピリピにをるキリスト・イエスに在る凡ての聖徒、および監督たちと執事たちとに贈る。」 ピリピ1:1 大正文語訳聖書
「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」
「キリスト・イエスにある」
「キリスト・イエスにあるすべての聖徒たちτοῖς ἁγίοις ἐν χριστῶ ἰησοῦ」。「キリスト・イエスにあるἐν χριστῶ ἰησοῦ」は「キリスト・イエスに在す」(明治元訳聖書)、「キリスト・イエスに結ばれている」(新共同訳聖書、フランシスコ改訳聖書)とも訳される。ἐνは「~の中に」の意。キリスト・イエスに結ばれた(の中に在る者)ゆえに、彼はキリスト・イエスの「僕δοῦλος」であり「聖徒ἅγιος」と呼ばれる。
(心のデボーション3321)
心のデボーション3322
「われは訓諭をさづけたまふヱホバをほめまつらん 夜はわが心われををしふ」 詩篇16:7 大正文語訳聖書
「わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。」 口語訳聖書
「神の助言」
神の助言は、必ずよろこばしいとは限らない。自分によろこばしくないものが「よい助言」の条件の一つだからである。自分によろこばしくない助言と出会ったら、あえて、その通りにしてみる。夜になると、その助言がすばらしいものを含んでいたことを「心が私に教える」の。よろこばしくないものからよろこばしいものが出たと神をほめたたえる。
(心のデボーション3322)
心のデボーション3323
「パウロ、シルワノ、テモテ、書を父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教會に贈る。願はくは恩惠と平安と汝らに在らんことを。」 Ⅰテサロニケ1:1 大正文語訳聖書
「パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」 口語訳聖書
「教会」
「教会ἐκκλησία」は「招集」を意味する語(「集まりの日」申命9:10)からきており、「集会、会議」を意味する。神に呼び出された者が神のことばを聞く集まりが教会である。「テサロニケ人たちの教会τῇ ἐκκλησίᾳ θεσσαλονικέων」のように、新約聖書では教会はしばしば、特定の地名を冠して語られる。「福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者」(エペソ3:6)とその集まりが「教会」である。(Ⅰテサロニケ1:1)
(心のデボーション3323)
心のデボーション3324
「わが肉體に汝らの試錬となる者ありたれど汝ら之を卑しめず、又きらはず、反つて我を神の使の如く、キリスト・イエスの如く迎へたり」 ガラテヤ4:14 大正文語訳聖書
「そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。」 口語訳聖書
「神の御使い」
パウロは肉体的なハンディをもっていたようだ。そのため、思わぬ迷惑をかけることもあったが、ガラテヤの人々はそれを「軽蔑したり、きらったり」しなかった。「軽蔑ἐξουθενέω」ということばは「無きもの扱いする」ことである。弱さを無視することは、何よりもその人を軽んじる。まず、自分の弱さを「神の御使い」のように迎えることだ。そうできる人が他人の弱さを嫌わない人になれる。(ガラテヤ5:14)
(心のデボーション3324)
心のデボーション3325
「我ダビデの家およびヱルサレムの居民に恩惠と祈禱の靈をそそがん」 ゼカリヤ12:10 明治元訳聖書
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。」 口語訳聖書
「祈りの霊」
「祈祷のこころは誠実であらねばならぬと共にまた深くなくてはならぬ。この深き消息に通ぜずしては、まことの祈りは口に出でない」(藤井武『信仰生活』より) 「祈りの霊」は神から来る。神は幼子の口にそれを給うた。(マタイ11:25)
(心のデボーション3325)
心のデボーション3326
「人に事ふる如くせず、主に事ふるごとく快くつかへよ。」 エペソ6:7 大正文語訳聖書
「人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」 口語訳聖書
「快く仕えなさい」
「快くεὔνοια」は「心から喜んで、愛をもって」の意。主人に仕えるときには「人にではなく神に仕えるように、快く(εὔνοια心から喜んで、愛をもって、好意をもって)仕えなさい。たとえ友に対してであっても同じである。(エペソ6:7)
(心のデボーション3326)
心のデボーション3327
「もろもろの天は神のえいくわうをあらはし 穹蒼はその手のわざをしめす」 詩篇19:1 明治元訳聖書
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」 口語訳聖書
「星を見る」
考えがまとまらない時には、夜の空を見上げるのも良いものである。星はまとまりもなく夜空に点在する。その茫漠とした広がりこそが今の心である。そこに光る一つの星に気づきたい。その星に意識を向けていくとまとまりのない星の世界に一つの物語が見えてくる。まとまりのないところに身を置いて、全体性を回復しいく作業がいやしかもしれない。その過程で、新しい状況の出現と共に、自分自身の全体性も回復する。
(心のデボーション3327)
心のデボーション3328
「されど汝らは選ばれたる族、王なる祭司・潔き國人・神に屬ける民なり、これ汝らを暗黒より召して、己の妙なる光に入れ給ひし者の譽を顯させん爲なり」 Ⅰペテロ2:9 大正文語訳聖書
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」 口語訳聖書
「驚くべき光」
神は私たちを「暗やみἐκ σκότους(暗黒)」から「驚くべき光εἰς τὸ θαυμαστὸν φῶς」に招かれる。「驚くべき光εἰς τὸ θαυμαστὸν φῶς」は「θαυμαστός(不思議な、驚嘆すべき)光」である。いかなる闇も吹き払う光である。(Ⅰペテロ2:9)
(心のデボーション3328)
心のデボーション3329
「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書
「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書
「神を知る者」
「神を識らんと欲せば新たに其存在の証拠を求むるを要せず、神を識らんと欲せは行を改めよ」(内村鑑三 「所感十年」34,10) 「心の清き者」は神を見る。「神を見る者τὸν θεὸν ὄψονται(ὁράω見る、経験する、味わう)」とは「神を知る者」であり、「神を知る者」は「行を改める者」のことである。(マタイ5:8)
(心のデボーション3329)
心のデボーション3330
「夙くより録されたる所は、みな我らの教訓のために録ししものにして、聖書の忍耐と慰安とによりて希望を保たせんとてなり。」 ロマ15:4 大正文語訳聖書
「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。」 口語訳聖書
「忍耐」
「忍耐強い人は、時が来るまで耐え忍ぶ。その後には、喜びが訪ねてくる。」旧約聖書外典ベン=シラの知1:23 フランシスコ改訳聖書) LXX ἕως καιροῦ ἀνθέξεται μακρόθυμος καὶ ὕστερον αὐτῷ ἀναδώσει εὐφροσύνη(A patient man will tear for a time, and afterward joy shall spring up unto him.) 忍耐する人(ὑπομονή)は時が来るまで涙して耐え忍ぶ。だが、その後には喜びが訪ね来て、歓喜に湧き上がる。(ロマ15:4)
(心のデボーション3330)
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