心のデボーション03311
「わが體を打ち擲きて之を服從せしむ。恐らくは他人に宣傳へて自ら棄てらるる事あらん。」 Ⅰコリント9:27 大正文語訳聖書
「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」 口語訳聖書
「自分を打ちたたく」
「打ちたたくὑπωπιάζω」は「目の下を打つ」の意から「したたかに打つ、虐待する、さんざんに苦しめる」をあらわす。競技者は勝利のために自分の体を徹底的に鍛える(打ちたたくὑπωπιάζω)。信仰はそのようにしてゆるむ心を打ちたたく(ὑπωπιάζω)。自分を打ちたたいて服従させるものを見出した人は幸いである。(Ⅰコリント9:27)
(心のデボーション03311)
心のデボーション03312
「忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。」 ロマ5:4 大正文語訳聖書
「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」 口語訳聖書
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」 新改訳聖書
「やめどき」
山男は「やめどき」ということを大切にする。あと少しで山頂というところでも、天候が怪しくなれば、そこが、「やめどき」と考えて登頂を断念する。判断を誤れば、取り返しのつかないことになりかねない。断念する勇気をもつには、達成感が必要なのだそうである。目標に届かなくとも、なすべきことはなしたと認める。断念は希望を捨てることではなく、希望をつなぐことなのであろう。
(心のデボーション03312)
心のデボーション03313
「この世の神は此等の不信者の心を暗まして、神の像なるキリストの榮光の福音の光を照さざらしめたり。」 Ⅱコリント4:4 大正文語訳聖書
「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」 口語訳聖書
「この世の神」
「この世の神ὁ θεὸς τοῦ αἰῶνος」。「αἰών」は「現世」の意。「来るべき世」に対して、「今、現世」に利益を求める者の神である。「この世の神ὁ θεὸς τοῦ αἰῶνος」は偽りの希望によって神への不信をもたらす。(Ⅰコリント4:4)
(心のデボーション03313)
心のデボーション03314
「相爭ふ婦は雨ふる日に絶ずある雨漏のごと」 箴言27:15 明治元訳聖書
「雨の降る日に雨漏りの絶えないのと、争い好きな女とは同じだ。」 口語訳聖書
「夫婦喧嘩」
子どもに夫婦のいさかいを見せたくないものだ。子どもは夫婦の激しいやりとりに、その原因が自分にあるのではとおびえる。その度に、「別れてやる」と母親が叫ぶのを聞いて、自分が捨てられるような不安を感じる。夫婦喧嘩は「したたり続ける雨漏り」のように、子どもの心をぬらす。子どもに夫婦喧嘩を見られたら、少なくとも、和解した姿も見せるべきである。夫婦の争いを見せてはいけないのではなく、ののしり合う姿しか見せられないのがなさけない。
(心のデボーション03314)
心のデボーション03315
「イエス答へて言ひ給ふ『われ汝が無花果の樹の下にをるを見たりと言ひしに因りて信ずるか、汝これよりも更に大なる事を見ん』」 ヨハネ1:50 大正文語訳聖書
「イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。」 口語訳聖書
「さらに大きなことを」
ナタナエルは自分を言い当てるイエスに出合い、イエスを「神の子、イスラエルの王」と告白した。するとイエスはナタナエルが信じたより「もっと大きなことを、あなたは見るであろう」と言われた。イエスを信じた人はみな、「あなたが信じたより、さらに大きなことを見るだろう」という主イエスの声を聴く。
(心のデボーション03315)
心のデボーション03316
「逆ふ者をば柔和をもて戒むべし、神あるひは彼らに悔改むる心を賜ひて眞理を悟らせ給はん」 Ⅱテモテ2:25 大正文語訳聖書
「反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、」 口語訳聖書
「悔い改め」
「悔い改め μετάνοια metanoia」は「心を変える(理解力・理性・知性・思考の根源を変える)」の意である。「真理εἰς ἐπίγνωσιν ἀληθείας(a full knowledge of truth)」にいたる「悔い改め μετάνοια metanoia」である。(Ⅱテモテ2:25)
(心のデボーション03316)
心のデボーション03317
「太初(はじめ)に道(ことば)あり道(ことば)は神偕にあり道(ことば)は即ち神なり」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書
「ことば」
イスラエル人は「知らぬ者は語らず、語らぬ者は知らず」と考えるという。彼らはことばを信じる人々なのである。ものごとはすべてことばで説明できると信じる。したがって、彼らは相手にことばがないのは、知らないからと決めつける。知る人は多くを語らず、というのが日本の慎みの伝統である。しかし、知ることがことばを新しく見つけることであるとすれば、私たちはまだ充分に神を知っていないと思う。
(心のデボーション03317)
心のデボーション03318
「人々これを聞きて默然たりしが、頓て神を崇めて言ふ『されば神は異邦人にも生命を得さする悔改を與へ給ひしなり』」 使徒11:18 大正文語訳聖書
「人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。」 口語訳聖書
「命にいた悔い改め」
「命にいたる悔改めτὴν μετάνοιαν εἰς ζωὴν ἔδωκεν」は神の賜物(δίδωμι didōmi)である。神は異邦人われらにもお与えになられた。主を誉めよ! 「それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)
(心のデボーション03318)
心のデボーション03319
「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書
「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書
「心に濁り」
「悲しき時は貧する時にあらず、隣人に捨てらるゝ時にあらず、孤独此世に存在する時にあらず、無学を以て人に嗤はるゝ時にあらず、悲しき時は我心の眼に神が見えずなる時なり」(内村鑑三) 神が身を隠されたのではない、私の心に濁りが生じ、神が見えなくなったのである。
(心のデボーション03319)
心のデボーション03320
「汝等いかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。」 マタイ18:12 大正文語訳聖書
「汝等之を何とか思へる、百頭の羊を有てる者、若其一頭を失はば、九十九頭を山に措き、往きて其迷へるものを尋ぬるに非ずや。」 口語訳聖書
「迷える者」
神は「迷える者πλανάω planaō」を尋ねられる。漢字「迷」の「米」は「多くのもの」を現わし、「道が多すぎてわからなくなり、迷う」の意である。「迷界」(この世)、「迷執」(真実を見失った誤ちの執念)、「迷途」(道に迷う)、「迷復」(道に迷い帰路を見失う)、「迷津」(自分の居場所を見失う)、「「迷霧」(方向を見失う)、「迷離」(ぼんやりして区別がつかない)、「迷宮」(そこに入ると出口がわからない宮殿)、「迷信」(根拠のない信仰)、「迷妄」(心の迷い)等、様々な「迷い」がある。(マタイ18:12)
(心のデボーション03320)
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