心のデボーション03301
「答へて言ふ『定りたるものの外、なにをも促るな』」 ルカ3:13 大正文語訳聖書
「彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。」 口語訳聖書
「定まりたるもの」
「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」は大正文語訳聖書「定りたるものの外、なにをも促(はたる)るな」。「促(はたる)πράσσω」は「徴る(はたる 徴収する)」である。主は取税人に「定められたもの以上を徴る(取り立てる)な」と教えられた。何事にも、それ以上徴るなという「定め」がある。(ルカ3:13)
(心のデボーション03301)
心のデボーション03302
「偖イスラエルの中にアブサロムのごとく其美貌のために讃られたる人はなかりき其足の跖より頭の頂にいたるまで彼には瑕疵あることなし」 Ⅱサムエル14:25 明治元訳聖書
「さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。」 口語訳聖書
「ほめはやされる」
アブシャロムほど、その美しさを「ほめはやされた者」はない。しかし、「もてはやされる」ことでかたちつくられる人格はもろいものだ。アブシャロムは人との関係を見抜くことができず、時代の流れにもてあそばれ、父ダビデに謀反をおこしてしまう。そして、「非の打ち所のない美しさ」の象徴だった髪を樫の木にからませ、宙ずりになったところを殺される。ほめはやされることが幸せだろうか。
(心のデボーション03302)
心のデボーション03303
「この時よりイエス教を宣べはじめて言ひ給ふ『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』」 マタイ4:17 大正文語訳聖書
「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。」 口語訳聖書
「神の国」
「天国は近づいた ἤγγικεν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν」。「近づいた ἐγγίζω」は「時間的、空間的な接近」を意味し、原型ἐγγίζωは完了形で「近づいて、そこに来ている」の意味である。(マタイ4:17)「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21 口語訳聖書)
(心のデボーション03303)
心のデボーション03304
「わかき人はなにによりてかその道をきよめん 聖言にしたがひて愼むのほかぞなき」 詩篇119:9 明治元訳聖書
「若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。」 口語訳聖書
「人生七掛け論」
人生七掛け論というのをいい出したのは映画監督の篠田正浩氏だそうである。昔の人が若い頃にすぐれた仕事を残せたのは、平均寿命が短かったためで、現代は自分の年齢に0.7を掛ければちょうどよいというのである。現在六十歳の人なら、自分は四十二歳なのだと考えればつじつまが合う。しかし、この計算は青少年には向かない。彼らはすでに苦悩の底を見てしまったのではないかと思えるのである。彼らの人生の年齢はどう計算したらよいだろうか。
(心のデボーション03304)
心のデボーション03305
「勤めて怠らず、心を熱くし、主につかへ、」 ロマ12:11 大正文語訳聖書
「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、」 口語訳聖書
「霊に燃え」
老いたる聖徒パウロが「勤めて怠らず、心を熱くし、主につかへ」と伝える。「心を熱くしτῶ πνεύματι ζέοντες」は「πνεῦμα霊、魂をζέω沸騰し、燃え」である。老いたる聖徒の霊(魂)は燃えて沸騰している。(ロマ12:11)
(心のデボーション03305)
心のデボーション03306
「神の子イエス・キリストの福音の始。」 マルコ1:1 大正文語訳聖書
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書
「福音のはじめ」
「これ神の子イエス・キリストの福音の始なり᾽Αρχὴ τοῦ εὐαγγελίου ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ [υἱοῦ θεοῦ].」(マルコ1:1 明治元訳聖書)「ἀρχή初め(羅語Initium開始」は「最初、発端、源、起源、根源」である。福音はその「ことの起こり、源、発端」を通して自己の「ことの起こり、源、発端」に導かずにはおかない。秘儀への開始である。(マルコ1:1)
(心のデボーション03306)
心のデボーション03307
「彼われに言たまひけるは人の子よ是等の骨は生るや我言ふ主ヱホバよ汝知たまふ」 エゼキエル37:3 明治元訳聖書
「彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。」 口語訳聖書
「枯れ骨の谷」
エゼキエルは谷で、おびただしい数の干からびた骨を見せられる。そして神は「これらの骨は生き返ることができようか」と問われる。そこにはいのちの充満はなく、何もかもがからからに干からびている。戦いの音もなく、ただ白い骨が累々と広がる世界である。再びそこにいのちを見るには、なぜ、干からびてしまったのか、その理由を知らねばならない。魂が生の喜びを失ったのは、なぜなのだろうか。
(心のデボーション03307)
心のデボーション03308
「おほくの人はいふたれか嘉事をわれらに見するものあらんやと ヱホバよねがはくは聖顔の光をわれらの上にのぼらせたまへ」 詩篇4:6 明治元訳聖書
「多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。」 口語訳聖書
「御顔の光」
「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」(新改訳聖書) 人々は「何かいいことはないか」とあたりを見回す。しかし、詩篇は答えて、「み顔の光を(が)わたしたちの上に照されるように」と神の光が、わたしの見たいものではなく、神が照らされるものを見ることを願う。
(心のデボーション03308)
心のデボーション03309
「わが心わが衷にかはりて我の愛憐(あはれみ)ことごとく燃おこれり」 ホセア11:8 明治元訳聖書
わたしは激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」 新共同訳聖書
「憐憫ある人」
イスラエルに向けて神の心は「内で沸き返り、あわれみでことごとく燃おこった」。「憐れみ」は冷たい感情ではない。相手への燃え続く炎のような「熱い」感情である。「憐憫ある人」の心は熱い。「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬる)きが故に、我なんぢを我が口より吐き出さん」 黙示3:15~16 大正文語訳聖書)熱くもなく冷ややかでもなく、ただ「微温(ぬる)き」教会を、神は口から吐き出される。
(心のデボーション03309)
心のデボーション03310
「ヱホバはわが光わが救なり われ誰をかおそれん ヱホバはわが生命のちからなり わが懼るべきものはたれぞや」 詩篇27:1 明治元訳聖書
「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。」 口語訳聖書
「開かれた目」
世界は「明日が見えない」という。「明日が見えない」のではない。「明日を照らす神の光」を見ることができなくなったのだ。それで世界は「いのちのとりで」を失い、「救い」を失った。そして、恐れと不安が人々をとらえるようになった。「神の光」を見るのは一人一人の「開かれた目」である。
(心のデボーション03310)
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