心のデボーション330

デボーション1
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† 心のデボーション 03291

「かれら竊におもふ わが家はとこしへに存りわがすまひは世々にいたらんと かれらはその地におのが名をおはせたり」 詩篇49:11  明治元訳聖書

「たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。」 口語訳聖書

 「ダモクレスの剣」

全シリヤを支配する僭主ディオニュシオス二世の臣下ダイモレスは僭主の栄華を羨み追従の言葉を口にすると、僭主ディオニュシオス二世はダイモレスに自分の玉座に座るように勧める。ダイモレスが僭主の玉座に座り、ふと見上げると頭上に細い毛で結ばれた一本の剣が刃を下にむけて吊り下げられているのに気づき、あわてて玉座から離れた。人のうらやむ栄華は常に危うさに晒されていることを「ダモクレスの剣」という。

(†心のデボーション03291)

† 心のデボーション 03292

「それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を眞實とするなり。」 へブル11:1  大正文語訳聖書

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」 口語訳聖書

 「甕のぞき」

藍を立てて紺色を染める。もう染まらなくなった甕に最後の糸を浸すと、淡くそれは美しい青が染まるのだそうである。染色家はその青を「甕のぞき」と呼ぶ。人の人生の終わりにも「甕のぞき」の青が残されているのだろうか。それなら、もう染まらなくなった甕に浸す「最後の糸」はもっていたい。まだ、見たことのない、しかし是非見たい淡い青である。

(†心のデボーション03292)

† 心のデボーション 03293

「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ」 ロマ1:1  大正文語訳聖書

「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから」 口語訳聖書

 「主を見出す」

パウロは自らを「キリスト・イエスの僕」と名乗る。「僕」は「δοῦλος奴隷」である。このことばには、自分を見出して召され、神の福音のために派遣される主を見出したパウロの高らかな神への賛歌が聞こえる。人は「主」を見出すことを通して自己を見出す。「自己を失わせる主」は偽物である。

(†心のデボーション03293)

† 心のデボーション 03294

「愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり」 伝道3:8  明治元訳聖書

「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」 口語訳聖書

 「砂漠の和解」

一人の男が砂漠で敵と出会った。すると彼は大急ぎで相手と和解をした。砂漠で一人になることは死を意味するからである。相手にも異存はない。そして彼らは旅をしてオアシスに着くと、ただちに戦いを再開したという。時を見極める人にとっては、戦いは唯一の悪とはならず、和睦は唯一の善を意味しないのだろうか。砂漠の和解はオアシスに通じず、オアシスの和解は砂漠に通じないのかもしれない。

(†心のデボーション03294)

† 心のデボーション 03295

「また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して』」 黙示21:3  大正文語訳聖書

「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、」 口語訳聖書

 「神の幕屋」

「神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいま(す)」神の幕屋が人と共にある。「共にμετά」は「一体、連結、共在、共働」をあらわず。(黙示21:3)

(†心のデボーション03295)

† 心のデボーション 03296

「柔和なる答は憤恨をとどめ厲しき言は怒を激す」 箴言15:1  明治元訳聖書

「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。」 口語訳聖書

 「理不尽な怒り」

「理不尽な怒りは、弁護の余地がない。気まぐれな怒りは、人を滅びに導く。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:22  フランシスコ改訳聖書)「理不尽な怒り」は不正で不当な怒りである。理屈にあわない怒りに弁解の余地はなく、身の破滅を招く。ほとんどの怒りは理不尽なものである。

(†心のデボーション03296)

† 心のデボーション 03297

「願はくは王御國の各州において官吏を擇び之をして美はしき處女をことごとくシユシヤンの城に集めしめ婦人を管理る王の侍從ヘガイの手にわたして婦人の局に入らしめ而して潔淨の物をこれに與へたまへ 」 エステル2:3  明治元訳聖書

「王に申しあげた、「どうぞ王よ、長生きされますように。わたしの先祖の墳墓の地であるあの町は荒廃し、その門が火で焼かれたままであるのに、どうしてわたしは悲しげな顔をしないでいられましょうか」。」 口語訳聖書

 「化粧」

「cosmetic・化粧品」は「コスモスcosmos宇宙」に由来する。男性には、女性の化粧は神秘でもある。しかし、時に、それは混沌である。不思議なことに、心を病む女性は、それとわかる化粧をすることがある。化粧を見れば、その人の「コスモス」がわかるということだろうか。化粧などしないですむ男に生まれてよかったと思うが、最近は化粧をする男が普通になろうとしている。

(†心のデボーション03297)

† 心のデボーション 03298

「ヱホバをおそるるものにヱホバの賜ふそのあはれみは大にして 天の地よりも高きがごとし」 詩篇103:11  明治元訳聖書

「天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、」 口語訳聖書

 「神のいつくしみ」

「いつくしみחֶסֶד」は「善、誠実、恵み」の意である。主の賜る「いつくしみחֶסֶד」は「主を畏れる人を超えて大き(く)」(新共同訳聖書)、「天にまで及(ぶ)」。(詩篇36:5 口語訳聖書)

(†心のデボーション03298)

† 心のデボーション 03299

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「清」

『孔子家語』入官には「水至清即無レ魚、人至察則無レ徒(水が清らかすぎれば魚が住まないし、人が潔白すぎれば仲間ができない)」とある。あまりに清廉すぎる人は、人に親しまれず孤立してしまうという。しかし、「清」という字は「水」+「青」で、澄んだ生きた水(静流、湧水)を意味する。とすれば、「生きた水」に魚は棲めないだろうか?問題が「清らかな水」ではなく「清らかすぎる水」にあるとすれば、「過ぎた清らかさ」を「清い人」とみるのは間違いである。マタイ5:8の「心の清い人々 καθαρός  カたロス」は「魂」が分裂しておらず、一を保ち、その歩むすべての道に定めある人である。 「心の清い人」は孤独であるが、孤立はしない。

(†心のデボーション03299)

† 心のデボーション 03300

「人々あやしみて言ふ『こは如何なる人ぞ、風も海も從ふとは』」 マタイ8:2  大正文語訳聖書

「彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。」 口語訳聖書

 「おおいなるしずけさ」

「イエスは大いなるしずけさを人々の心の中に君臨させる力を持っていた」。(モーリヤック『イエスの生涯』)

心に「颶風(はやて)」が吹き荒れるとき、「風と湖とを戒め給ひし」(ラゲ訳聖書)主がおられることを思い起こそう。

(†心のデボーション03300)

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