心のデボーション328

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 03271

「イエス振反りて、その從ひきたるを見て言ひたまふ『何を求むるか』彼等いふ『ラビ(釋きていへば師)いづこに留り給ふか』」 ヨハネ1:38  大正文語訳聖書

「イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。」 口語訳聖書

 「何を求むるか」

イエスの最初の弟子はアンデレともう一人のバプテスマのヨハネの弟子であった。彼らは師であるバプテスマのヨハネがイエスを指して「見よ、神の子羊」と言うのを聞いてイエスの後についていった。イエスが二人に「あなたがたは何を求めるのか」と聞かれると彼らは「今、どこにお泊りですか」と尋ねた。「泊る μένω」はイエスの「滞在先」を意味するとともに「真の所在」を尋ねるものであった。二人はイエスに「あなたはどなたですか?」と尋ねたのであろう。するとイエスは「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と言われ、二人は「イエスの泊まっておられるところ」を知り、イエスの弟子になった。イエスは「宿泊先」で御自身が誰であるかを明らかにされたのである。「あなたは私に何を求める(ζητέω 探し求める)のか?」とイエスは言われる。

(†心のデボーション03271)

† 心のデボーション 03272

「愚なる子はその父の災禍なり 妻の相爭そふは雨漏のたえぬにひとし」 箴言19:13  明治元訳聖書

「愚かな子はその父の災である、妻の争うのは、雨漏りの絶えないのとひとしい。」 口語訳聖書

 「妻のいさかい」

妻の持ち込む「いさかい」は「したたり続ける雨漏り」のようだという。新共同訳はこのところを「いさかい好きの妻は」と訳す。昔、捕虜を拷問するのに、身動きできなくして頭に水滴をたらし続けるというのがあったと聞く。初め水滴は痛みも感じないが、続けられると、次第にハンマーで殴られるほどの痛みに感じられ、捕虜は発狂したそうである。「いさかい好きな妻」は、軽い雨漏り程度なら凌げないでもないが、延々と続けば、夫には拷問に近い苦しみとなる。

(†心のデボーション03272)

† 心のデボーション 03273

「かくてイエス彼等とともに下り、ナザレに往きて順ひ事へたまふ。其の母これらの事をことごとく心に藏む。」 ルカ2:51  大正文語訳聖書

「それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。」 口語訳聖書

 「心にとめる」

イエスの母マリヤは神の御子を宿すという特異な経験の後、我が子としてイエスの成長を日々見守っていた。マリヤは天使ガブリエルが告げた祝福のことばも忘れなかった。ただ、「これらの事をみな心に留めていた」(ルカ2:51)「心にとめる διατηρέω」は「大事に保管する」の意。男には「心にとめる διατηρέω」ことができず、何とかして現わそう(解決しよう)とする。しかし、女はそれ(解決)が現れるまで大事に保管することができる。

(†心のデボーション03273)

† 心のデボーション 03274

「父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑姆は嫁に、嫁は姑姆に分れ爭はん』」 ルカ12:53  大正文語訳聖書

「また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」 口語訳聖書

 「美しい幻想」

「実の母子よりも親しい間柄」は姑と嫁が抱く美しい幻想ではないだろうか。そう信じたいばかりに真実を隠してしまい、それが互いを傷つけることもある。実の母子が必ず親しいとはかぎらない。母子ならばこその、厳しく言い合いもし、喧嘩もするのではないだろうか。姑に逆らうことができるというのも嫁のやさしさかもしれなない。それは、ミカの「家の者を敵とする」関係とは違うものである。(ミカ7:6)

(†心のデボーション03274)

† 心のデボーション 03275

「神の御意によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ、書をエペソに居る聖徒、キリストに在りて忠實なる者に贈る。」 エペソ1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。」

 「忠実な者」

「忠実な聖徒たち πιστοῖς」。πιστοῖςは「信じる」と「忠実」の意をもち、新共同訳聖書「キリスト・イエスを信じる聖なる者たち」、永井直治訳聖書「信なる者」である。イエス・キリストにあって(の中に)信じる者は、イエス・キリストにあって(の中に)忠実である。(エペソ1:1)

(†心のデボーション03275)

† 心のデボーション 03276

「神の御心によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ及び兄弟テモテ、」 コロサイ1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、」 口語訳聖書

 「兄弟テモテ」

パウロは同労者テモテを「兄弟 ὁ ἀδελφὸς」と呼ぶ。「兄弟」は「神の御心によるキリスト・イエスの〔兄弟〕 χριστοῦ ἰησοῦ διὰ θελήματος θεοῦ」である。「兄弟」は、互いが父なる神の御心と御子キリスト・イエスにある信仰が確認される呼称である。(コロサイ1:1)

(†心のデボーション03276)

† 心のデボーション 03277

「われら互に相愛すべきは汝らが初より聞きし音信なり。」 Ⅰヨハネ3:11  大正文語訳聖書

「わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。」 口語訳聖書

 「コンビニ空間」

コンビニエンス・ストアは不思議な空間である。深夜、どこからともなく集まった若者が、ほとんど会話もしないで本を読み、自分の好きなものを買い、ある時間を過ごして立ち去る。愛は「互い」の関係として成立する。人と関係を結ばなくてもすむコンビニエンス・ストアに愛は成立しない。閉じこもっていては愛に出会えない。愛されるのを待つのではなく、相手に自分を「愛させる努力」も必要である。

(†心のデボーション03277)

† 心のデボーション 03278

「この故に汝らは斯く祈れ。「天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。」 マタイ6:9  大正文語訳聖書

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」 口語訳聖書

 「かく祈れ」

「然ば爾曹かく祈るべし Οὕτως οὖν προσεύχεσθε」。(明治元訳聖書)οὕτωは「このように」の意。「さあ、ぐずぐずせずに(οὕτω)〔このように〕祈れ」である。何を如何に祈るべきか。主が教えてくださる。(マタイ6:9)

(†心のデボーション03278)

† 心のデボーション 03279

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「心のきよい人」

「心のきよい人καθαρός」は、「心がすっかり掃除された人」のことである。必要なものと不要なものが吹き分けられた人のことである。(マタイ5:8)

(†心のデボーション03279)

† 心のデボーション 03280

「視よ祭司の長アマリヤ汝らの上にありてヱホバの事を凡て司どりユダの家の宰イシマエルの子ゼバデヤ王の事を凡て司どる亦レビ人汝らの前にありて官吏とならん汝ら心を強くして事をなせヱホバ善人を祐けたまふべし」 Ⅱ歴代19:11  明治元訳聖書

「見よ、祭司長アマリヤは、あなたがたの上にいて、主の事をすべてつかさどり、イシマエルの子、ユダの家のつかさゼバデヤは王の事をすべてつかさどり、またレビびとはあなたがたの前にあって役人となります。雄々しく行動しなさい。主は正直な人と共におられます」 口語訳聖書

 「大祭司」

祭司は神に立てられ、民に仕え、神のことについてすべてをつかさどる者であった。Archbishopはカソリックでは大司教、正教会、聖公会では大主教と呼ばれる。(日本の大司教区は東京、大阪、長崎の三か所にある) 祭司は民を正しく神に導く者であり、誤り教える者は偽祭司である。主イエス・キリストは「メルキゼデクの位に等しい大祭司 ἀρχιερεύς 」である。(へブル5:10)

(†心のデボーション03280)

コメント