† 心のデボーション 03261
「イエス彼らに目を注めて言ひたまふ『人には能はねど、神には然らず、夫れ神は凡ての事をなし得るなり』」 マルコ10:27 大正文語訳聖書
「イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。」 口語訳聖書
「神はなんでもできる」
「神はなんでもできる πάντα δυνατὰ everything is possible for God(Today’s English Version)」。「何でもπᾶς」は「何でも、あらんかぎり、1つも欠け無く」の意。神はあらゆる力の根源である。「ヱホバに豈爲し難き事あらんや」(創世記18:14 明治元訳聖書)(マルコ10:27)
(†心のデボーション03261)
† 心のデボーション 03262
「されど汝等我をここに賣しをもて憂ふるなかれ身を恨るなかれ神生命をすくはしめんとて我を汝等の前につかはしたまへるなり」 創世記45:5 明治元訳聖書
「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」 口語訳聖書
「古い傷」
あの時、ああしていたら、今ごろどうなっているだろうと想像することがある。そんな気分になるのは、今が満たされていないからではないか。後悔は今の自分を一層みじめにさせる。過去を消すことはできない。しかし、今をどう生きるかによって過去の意味を変えることはできる。ヨセフはそのようにして、過去の古傷に新しい意味を見いだした。
(†心のデボーション03262)
† 心のデボーション 03263
「神の御意によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ、書をエペソに居る聖徒、キリストに在りて忠實なる者に贈る。」 エペソ1:1 大正文語訳聖書
「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。」
「キリストの中に」
「キリスト・イエスにあって ἐν χριστῶ」は直訳「キリストの中に」で「キリストによって」の意。フランシスコ改訳聖書は「キリスト・イエスに結ばれている」と訳す。キリスト者とはキリストの中にキリストに結ばれた者である。(エペソ1:1)
(†心のデボーション03263)
† 心のデボーション 03264
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり。」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 口語訳聖書
「潔癖な人」
物事を潔癖にやりたい人は自分がいいかげんなやり方では気がすまないばかりか、他人にも完全を要求する。それでは潔癖な人がすべてに潔癖かといえばそうでもない。障子のさんに積もったほこりにも神経をつう人が、整理整頓はまったくだめということもある。要するに、潔癖さというのはその人の主観にすぎない。潔癖さがいけないのではなく、それを他人に押しつけないことである。
(†心のデボーション03264)
† 心のデボーション 03265
「智慧ある人おろかなる人と爭へば或は怒り或は笑ひて休むことなし」 箴言29:9 明治元訳聖書
「知恵ある人が愚かな人と争うと、愚かな者はただ怒り、あるいは笑って、休むことがない。」 口語訳聖書
「怒りを遠ざける」
「〔主を畏れることは、罪を退け、その畏れを心にとどめる人は、すべての怒りを遠ざける。〕」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:21 新共同訳聖書) 「怒りを遠ざける」はフランシスコ改訳聖書で「怒りを追い払う」。「神への畏れ」は「すべての怒り」を鎮め、怒りの罪を退ける。
(†心のデボーション03265)
† 心のデボーション 03266
「召されたる者にはユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の能力また神の智慧たるキリストなり。」 Ⅰコリント1:24 大正文語訳聖書
「召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。」 口語訳聖書
「新しき人」
キリストは「神の力、神の知恵」神の働きそのものである。ユダヤ人にも、異邦人である私にも、等しく「新しき人」の源である。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」コロサイ2:3 口語訳聖書
(†心のデボーション03266)
† 心のデボーション 03267
「かれはその家の事を鑒み 怠惰の糧を食はず」 箴言31:27 明治元訳聖書
「彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。」 口語訳聖書
「怠惰のパン」
非のうちどころがないというのは、時には居心地の悪いものかもしれない。よく気がつくが、それを完璧にやられると、そこに取り込まれる不快さを感じ、身構えてしまう。多少気のきかないところがあって、軽い欲求不満を感じさせるくらいが良いのかもしれない。完璧な母親よりも、ほどほどの母親の方が子どもの成長を促すようだ。「ほどほど」というのは、好んで「怠惰のパン」を食べる、ただの察しの悪い人とは全く違う。
(†心のデボーション03267)
† 心のデボーション 03268
「而してヨシユアすべての民に言けるはイスラヱルの神ヱホバかく言たまふ汝らの遠祖すなはちアブラハムの父たりナホルの父たりしテラのごときは在昔河の彼旁に住て皆他神に事へたりしが 」 ヨシュア24:2 明治元訳聖書
「そしてヨシュアはすべての民に言った、「イスラエルの神、主は、こう仰せられる、『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、』」 口語訳聖書
「父テラの信仰」
アブラハムの父テラはウルに住み、その名は「月」を意味するところから、「天において光り輝くものなどを、/宇宙の支配者、神々と見なした。」(知恵の書13:3)のかもしれない。神はアブラハムを「川の向こうから連れ出して」カナンの地に導かれた。信仰深い父に育てられたとしても、信仰はは常に「神と私」の間に新しく始まるものでなければならない。
(†心のデボーション03268)
† 心のデボーション 03269
「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書
「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書
「流血の声」
「正義に歩み、正しいことを語り。虐げによる利益を退け、手を振って、賄賂を拒み。耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない者。このような人は、高い所に住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない」 イザヤ33:15~16 新共同訳聖書
「耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない」は、流血の謀に加担せず、悪に耳もかそうとはしない者のことである。神を見るために、流血の声に耳を塞ぎ悪に目を閉じるとすれば、彼はまやかし者であると考えざるを得ない。彼は神を求める「心の清き者」というよりも、無関心なのである。
(†心のデボーション03269)
† 心のデボーション 03270
「我らは神の中に生き、動きまた在るなり。汝らの詩人の中の或者どもも「我らは又その裔なり」と云へる如し。」 使徒17:28 明治元訳聖書
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『われわれも、確かにその子孫である』。」 口語訳聖書
「存ことを得なり」
「我らは神の中に生き、動きまた在るなり」。明治元訳聖書は「それ我儕は彼に頼て生また動また存ことを得なり」と訳す。「我らは神の中に生き、動きまた在るなり」は「生また動また存ことを得なり」である。得たい自己に気づくということは、すでに得ていると気づくことでもある。キリストによりて神の中に生くるを得、動くを得、在るを得よ。
(†心のデボーション03270)
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