心のデボーション325

デボーション1
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† 心のデボーション 03241

「汝の神ヱホバを畏れ之に事へこれに附從がひその名を指て誓ふことをすべし」 申命記10:20  明治元訳聖書

「あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない。」 口語訳聖書

 「神にすがる」

新改訳聖書は本節を「あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。」と訳す。神を畏れ、神に仕え、そして、神にすがれ。

(心のデボーション03241)

† 心のデボーション 03242

「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」 マタイ6:34  大正文語訳聖書

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」 口語訳聖書

 「今の自分」

心配がはじまると、際限もなく気になるものだ。「大丈夫だから心配しないで」と慰めても意味がない。自分が現実には起こりそうにもないことを気にしていることは理解しているのである。しかし、不安が湧いてくるのを抑える事ができないのだ。イエスは、明日の苦労よりも、「今」を考えなさいといわれる。「今」の自分は、とりあえず、飢えても渇いてもいない、その感謝と信仰に生きよといわれるのである。

(心のデボーション03242)

† 心のデボーション 03243

「ヱホバを懼るるものよヱホバをほめたたへよ ヤコブのもろもろの裔よヱホバをあがめよ イスラエルのもろもろのすゑよヱホバを畏め」 詩篇22:23  明治元訳聖書

「主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。」 口語訳聖書

 「賛美」

「ユダヤ人は死に臨んで詩篇22篇をとなえた。」(TH.C.フリーゼン) 「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。」(詩篇22:15  口語訳聖書) しかし、死の床にあっても詩人は神に寄り頼む。「わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。」(詩篇22:22  口語訳聖書) 賛美は神への信仰を新しくする。

(心のデボーション03243)

† 心のデボーション 03244

「我なんぢらを遣して孤兒とはせず、汝らに來るなり」 ヨハネ14:18  大正文語訳聖書

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」 口語訳聖書

 「つながり」

話したくないときに、黙っていても許してくれるのが「つながり」である。いいたくないことは無理に聞き出そうしないのも「つながり」である。そういう「つながり」によって、人は生きる勇気が与えられる。                             相手が黙っているからといって、つながりを断たないことだ。「つながり」を断つことは、いのちを断つことを意味する。元気になれば、ことばも出てくる。

(心のデボーション03244)

† 心のデボーション 03245

「其右の手には長壽あり その左の手には富と尊貴とあり」 箴言3:16  明治元訳聖書

「その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。」 口語訳聖書

 「右の手には長寿があり」

「主を畏れることは、知恵の根源であり、その枝は長寿である。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:20  フランシスコ改訳聖書) 知恵の木の枝は「長寿」であり、その根は「主への畏れ」である。「長寿」は知恵の実を豊に結ぶ。

(心のデボーション03245)

† 心のデボーション 03246

「この民の心は鈍く、耳は聞くに懶く、目は閉ぢたればなり。 これ目にて見、耳にて聽き、心にて悟り、飜へりて、我に醫さるる事なからん爲なり」 マタィ13:15  大正文語訳聖書

「この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。」 口語訳聖書

 「心の肥満」

「心が鈍る παχύνω」は「παχύς 太った」から来ており、「肥え太る」から「鈍感、無感覚、冷淡」の意である。

「耳が遠い βαρέως」は「耳が重い」から「聞くことに遅い」、「目を閉じる καμμύω」は「目をつぶる、眠る」の意である。何事にも反応しない、もはや求めることをしなくなった人である。(マタイ13:15)

(心のデボーション03246)

† 心のデボーション 03247

「實に大なるかな、敬虔の奧義 『キリストは肉にて顯され、 靈にて義とせられ、 御使たちに見られ、 もろもろの國人に宣傳へられ、 世に信ぜられ、 榮光のうちに上げられ給へり』」 Ⅰテモテ3:16  大正文語訳聖書

「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、/「キリストは肉において現れ、/霊において義とせられ、/御使たちに見られ、/諸国民の間に伝えられ、/世界の中で信じられ、/栄光のうちに天に上げられた」。」 口語訳聖書

 「福音」

福音(εὐαγγέλιον)は「イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた(ἀναλαμβάνω)日までのこと」(使徒1:1-2)である。イエス・キリストの誕生から天にあげられた日までのすべての出来事、教えである。(Ⅰテモテ3:16)

(心のデボーション03247)

† 心のデボーション 03248

「凡て汝の心の好む物をその金に易べし即ち牛羊葡萄酒濃酒など凡て汝が心に欲する物をもとめ其處にて汝の神ヱホバの前にこれを食ひ汝と汝の家族ともに樂むべし」 申命記14:26  明治元訳聖書

「その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。」 口語訳聖書

 「金髪」

息子が「ただいま」と金髪になって帰宅したら、驚かない母親はいない。「その頭、どうしたの!」と騒々しく騒ぎ立てないことだ。「お帰り、今日はあなたの好きな焼き肉よ」とさらりといつもの通りに迎える。食事が終わってから、「お母さん、さっきは、本当にびっくりしたわ。コーヒー飲む?」と切り出してみる。子どもをきちんと受け止めながら自分を開いていく、その底にあるのは「家族とともに喜ぶ」姿勢である。

(心のデボーション03248)

† 心のデボーション 03249

「ここに王こたへて言はん『誠になんぢらに告ぐ、此等のいと小きものの一人に爲さざりしは、即ち我になさざりしなり』と」 マタイ25:45  大正文語訳聖書

「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。」 口語訳聖書

 「無為の罪」

「これらの最も小さい者 ἐλάχιστος」は「μικρός(小さい)」の最上級で「問題にならないくらい小さい、と

るに足りない、つまらない」の意である。餓えている人への助けをおこたるのは「無為の罪」である。主イエス

はわたしが最も貧しいときに接近し、その御手に私の弱さ、貧しさを包まれたではないか。(マタイ25:45)

(心のデボーション03249)

† 心のデボーション 03250

「わが心わが衷にかはりて我の愛憐(あはれみ)ことごとく燃おこれり」 ホセア11:8 明治元訳聖書

「わたしは激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」 新共同訳聖書

 「憐憫ある人」

イスラエルに向けて神の心は「内で沸き返り、あわれみでことごとく燃おこった」。

「憐れみ ἐλεέω」は冷たい感情ではない。相手への燃え続く炎のような「熱い」感情である。「憐憫ある人」の心は熱い。

「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬる)きが故に、我なんぢを我が口より吐き出さん」 黙示3:15-16) 大正文語訳聖書

熱くもなく冷ややかでもなく、ただ「微温(ぬる)き」教会を、神は口から吐き出される。(ホセア11:8)

(心のデボーション03250)

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