† 心のデボーション 03231
「キリストには知慧と知識との凡ての寶藏れあり。」 コロサイ2:3 大正文語訳聖書
「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」 口語訳聖書
「知恵と知識との宝」
「隠されている ἀπόκρυφος」は「秘密にする、埋められている」の意である。キリストのうちには知恵と知識の宝がいっさい埋められている。(コロサイ2:8)隠されているのは現わされるためである。(マルコ4:22)
「主は知恵にまみえておのが分を分かち与え、また知識と聡明とを雨のごとく降らし、堅くこれを保つ者の光栄を高む」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:19 日本聖公会訳聖書)
(†心のデボーション03231)
† 心のデボーション 03232
「温柔き舌は生命の樹なり 悖れる舌は霊魂を傷ましむ」 箴言15:4 明治元訳聖書
「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。」 口語訳聖書
「うそでもいいから」
女性の「うそでもいいから」には注意する必要がある。彼女に「うそでもいいから好きといって」といわれて「君が好き」と答え、泥沼にはまった人もいる。彼女は本当のところを知りたくないのである。そのあたりと見当をつけて受け取れば、たいていはおさまる。「うそでもいいから」という女性は、すでにうそを持っていて、その悲しさを知っているのかもしれない。
(†心のデボーション03232)
† 心のデボーション 03233
「されど人もし神を愛せば、その人、神に知られたるなり」 Ⅰコリント8:3 大正文語訳聖書
「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。」 口語訳聖書
「知ることと愛すること」
人が神を愛するのではなく、神が私を愛される。それで、私は神を愛することを知った。人が神を知るのではなく、神がわたしを知られ、それで私は神を知ることを知った。神を愛している、その人は神に知られているのである。
(†心のデボーション03233)
† 心のデボーション 03234
「茲に民災難に罹れる者のごとくにヱホバの耳に呟きぬヱホバその怨言を聞て震怒を發したまひければヱホバの火かれらに向ひて燃いでその營の極端を燒り」 民数11:1 明治元訳聖書
「さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた」 口語訳聖書
「目的のない不平」
不平を口にしてはいけないだろうか。私はそうは思わない。不平をいわない世界はどこかゆがんでいる。問題は、まず不平の気分があって、それでものごとにのぞむことである。やがて、すべてが気に入らず、それがつぶやきに変わり、その気分が人から人に伝わる。神が怒りを燃やされるのは、この「目的のない不平」である。私は不平をいいたいのではなく、不平をいわない人にはなりたくないのである。
(†心のデボーション03234)
† 心のデボーション 03235
「惟汝の神ヱホバのその名を置んとて選びたまふ處にて汝薄暮の日の入る頃汝がエジプトより出たる時刻に逾越の牲畜を宰るべし」 申命記16:6 明治元訳聖書
「ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、夕暮の日の入るころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越の犠牲をほふらなければならない」 口語訳聖書
「エジプトから出た時刻に」
過越の犠牲は、民がエジプトから脱出した時刻に屠らなければならないとされた。過去の記憶にもとづいて主の選ばれた場所(今)を礼拝するのがイスラエル人の礼拝であった。歴史は単に過去の記憶ではなく、今を支え動かし、すべてを新しくする力である。
(†心のデボーション03235)
† 心のデボーション 03236
「その中にいますヱホバは義くして不義を行なひたまはず朝な朝な己の公義を顯して缺ることなし 然るに不義なる者は恥を知ず」 ゼパニヤ3:5 明治元訳聖書
「その中にいます主は義であって、不義を行われない。朝ごとにその公義を現して、誤ることがない。しかし不義な者は恥を知らない。」 口語訳聖書
「朝ごとに」
神は「朝ごとに」御自身を現わされる。そうでなければ人は神を見出すことはできないだろう。しかし、朝ごとの現れにもかかわらず、人が自己の神をのみ求めるならば、人は神の現れと救いを自らを失うだろう。
(†心のデボーション03236)
† 心のデボーション 03237
「我が此民の前に出入することを得んために今我に智慧と智識とを與へたまへ斯のごとき大なる汝の民を誰か鞫きえんや」 Ⅰ歴代1:10 明治元訳聖書
「この民の前に出入りすることのできるように今わたしに知恵と知識とを与えてください。だれがこのような大いなるあなたの民をさばくことができましょうか」 口語訳聖書
「子どもの知恵」
ニューヨークの小学校で「ケーキは一つ一ドルですが、三つ買えば二ドルになります。それで、あなたは三つ買ったのですが、いくら得をしたでしょうか」という宿題があった。日本の子どもなら「答は簡単、一ドル」と答えるだろう。しかし、アメリカの子どもは違っていた。「三つ買っても自分が食べられるのは一つだから一ドルの損」、「一つは自分で食べて残りを弟たちに売ればタダになる」等々。答が必ずしも一つでないのが知恵である。
(†心のデボーション03237)
† 心のデボーション 03238
「この四十年のあひだ汝の衣服は古びて朽ず汝の足は腫ざりし」 申命8:14 明治元訳聖書
「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」 口語訳聖書
「荒野の40年間」
神はイスラエルに餓えと共にマナを食べさせられた。(申命8:3) それは人が神のことばによって生きることを知るためであった。振り返ってみれば、「この(荒野の)四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命8:14)とわかるだろう。
(†心のデボーション03238)
† 心のデボーション 03239
「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書
「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「矜恤(あはれみ)ある者は福(さいはひ)なり、彼等矜恤(あはれみ)を得んとすればなり」 日本正教会聖書
「矜恤 きょうじゅつ」
明治15年、日本正教会の司祭に選出されたティト小松韜蔵司祭が初めて色丹島へ巡回したとき、その辛労に対して「府下各教会の信徒から7月末までに、矜恤品・矜恤金が続々と寄せられた」、「矜恤金で砂糖その他の物品を購入して色丹へ直ちに送った」と記録されている。(『日本正教会伝道誌』)「矜恤 きょうじゅつ」の「矜」「恤」はともに「あわれみ、めぐむ」こと。戦時中、戦地にいる兵士に送る金銭や品物を「恤兵金 じゅっぺいきん」と言った。日本正教会訳では「憐憫 ἐλεέω」を「矜恤」と書いて「あはれみ」と読ませる。各地の教会からの献金は「矜恤金 (きょうじきん)」と呼ばれている。()
(†心のデボーション03239)
† 心のデボーション 03240
「願はくは平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの靈と心と體とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの來り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を。」 Ⅰテサロニケ5:23 大正文語訳聖書
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」 口語訳聖書
「主の日」
主イエス・キリストの来臨の日は「盗人が夜くるように来る」(Ⅰテサロニケ5:2)。「来臨 παρουσία」は「近くにいる、到着する」を意味するπάρειμιから来ている。「主の日」はキリストが目に見えるかたちで来られる日である。すでに私の「近くに、到着」した。(Ⅱテサロニケ5:23)
(†心のデボーション03240)
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