心のデボーション322

デボーション1
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† 心のデボーション 03211

「神の御意により召されてイエス・キリストの使徒となれるパウロ及び兄弟ソステネ、」 Ⅰコリント1:1 大正文語訳聖書

「神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、」 口語訳聖書

 「神の熱望」

「神の御意」(大正文語訳聖書)は、漢訳聖書(新約全書美華書店1863年)「由神旨」と訳されている。「旨」の原意は「素晴らしくよきもの」であり、「旨い食べ物」の意を含む。転じて、「主旨、糸、考え」をあらわし、「(天子の)命令、恩旨」も「旨」である。「御旨」は恩寵に満ちた「旨きもの」である。パウロは、その神の「旨」によって召されてキリスト・イエスの使徒となった。聖書の「み旨 θέλημα」は「意思、思い、決意、熱望」の意である。(Ⅰコリント1:1)

(†心のデボーション03211)

† 心のデボーション 03212

「ヱホバの使之に現れて剛勇丈夫よヱホバ汝とともに在すといひたれば」 士師6:12 明治元訳聖書

「主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」 口語訳聖書

 「臆病なギデオン」

ギデオンは酒ぶねの中に隠れて、ひそやかに小麦を打つ。敵を刺激しないように細心の注意を払うのがギデオンの生き方であった。要するに臆病なのだ。神はギデオンの「臆病」を戦いの武器として用いられる。強力な東の連合軍に対して、三万二千人の兵をわずか三百人に減らすのは、臆病でなければできることではないのかもしれない。もっと大胆になろうなどと思わないことだ。「勇士」とは自分の内にあるものに徹していける人のことだからである。

(†心のデボーション03212)

† 心のデボーション 03213

「然れど主に歸する時、その面帕は取り除かるべし。」 Ⅱコリント3:16  大正文語訳聖書

「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。」 口語訳聖書

 「おおい」

人は神のことばに向くとき、その心には「おおい」がかかっている。しかし、人が神のことばに向くとき、神はその「おおい」を取り除かれる。「おおい κάλυμμα」は「顔をおおう被り物」の意である。「おおい」を鳥の祖かれた心は御言葉に直接触れ、味わい、意味を読み取る。

(†心のデボーション03213)

† 心のデボーション 03214

「汝等しづまりて我の神たるをしれ われはもろもろの國のうちに崇められ全地にあがめらるべし」 詩篇46:10  明治元訳聖書

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」 口語訳聖書

 「淵黙」

このみ言葉は文語訳では「汝らしずまりて、我の神たるを知れ」と訳される。「しずまる」は、戦うことをやめ、力を放棄することである。すべてを知り抜いて、あえて黙ることを「淵黙(えんもく)」という。無言でありながら深くを語る。淵黙は、相手と戦うことをやめ、自らの力を抜いて、神を知る心の静かさにある。まず、戦いの武具を傍らに置いて、鎮まる心である。

(†心のデボーション03214)

† 心のデボーション 03215

「わが軛は易く、わが荷は輕ければなり」 マタイ11:30  大正文語訳聖書

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 口語訳聖書

 「痛み」

「きみが痛みを背負わなければ痛みが君をはこんでゆくだろう。…だからわれわれは、堪えられる苦痛には堪えればいいし、堪えられないときは、気に入らぬ劇場から退場するように、人生から逃げ出せばよい」(モンテーニュ「エセー」より) モンテーニュは「苦痛は頑として抵抗する者にはあっさりと降伏する」と告げ、堪えられない痛みから簡単に逃げ出すなと語るのである。

(†心のデボーション03215)

† 心のデボーション 03216

「われを愛する者は我これを愛す 我を切に求むるものは我に遇ん」 箴言8:17  明治元訳聖書

「わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」 口語訳聖書

 「神の知恵」

本節の「わたし」は直接的には「知恵」であり、「神」の意も含む。「知恵(神)」は「知恵(神)」を愛する者を愛し、「知恵(神)」を切に求める者は「知恵(神)」に出合う。神の愛される知恵に出合う者は幸いである。

(†心のデボーション03216)

† 心のデボーション 03217

「もし一つの肢苦しまば、もろもろの肢ともに苦しみ、一つの肢尊ばれなば、もろもろの肢ともに喜ぶなり。」 Ⅰコリント12:26  大正文語訳聖書

「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」 口語訳聖書

 「苦しみの一致」

「お前の育て方が悪い、土下座して謝れ」といわれて親がその通りにしても、子どもは少しもうれしくない。子どもは謝ってもらいたいのではなく、思うようにいかない状況があって自分の力でそれを克服できないイライラを訴えているのであろう。大切なことは「誰が悪いのか」を問うことではなく、「一人の子どもが苦しめば、家族の全員が苦しむ」という苦しみの一致である。

(†心のデボーション03217)

† 心のデボーション 03218

「の故に我らは落膽せず、我らが外なる人は壞るれども、内なる人は日々に新なり。」 Ⅰコリント4:16  大正文語訳聖書

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」 口語訳聖書

 「内なる人」

パウロはユダヤ人も異邦人も「キリストにあって新しい人」になり(エペソ2:15)、「内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅰコリント4:16)と語る。異邦人としてイエスを信じる我らの「内なる人 ἔσω」は「日々に新た」にされていくことを実感をもって知るのは神の恵みによる。「内なる人 ἔσω」はキリストの御霊によって生まれ変わりによるいのちを意味する。(Ⅰコリント4:16)

(†心のデボーション03218)

† 心のデボーション 03219

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」 口語訳聖書

 「憐れみ深い人々」

「憐れみ深い人々 ἐλεήμων」は憐れみを与えるばかりでなく、「憐れみを受ける ἐλεέω」ことのできる人である。成熟した人はその両方に魂が開かれている。憐れみは与えるが、受けたくないというのは傲慢である。(マタイ5:7)

(†心のデボーション03219)

† 心のデボーション 03220

「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1  明治元訳聖書

「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」 口語訳聖書

 「思索生活」

ギリシャの哲学者たちは真理や究極的存在を理解するために「思索、観照生活 βίος θεωρητικός」に専念した。しかし、真理や究極的存在は観察や考察によって得られるものではない。真理や究極的存在が人に接近するのを待たねばならない。そのために、詩人は高い山に向けて「目をあげる」のである。

(†心のデボーション03220)

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