心のデボーション320

デボーション1
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† 心のデボーション 03191

「愚なる哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顯されたるに、誰が汝らを誑かししぞ」 ガラテヤ3:1 大正文語訳聖書

「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」 口語訳聖書

 「描き出される」

「描き出される προγράφω」は「布告する、公告する」の意で、W・バークレーは「ポスターを掲げる」の意とする。「十字架につけられたイエス・キリスト」は、すべての人々の眼前に描き出され、公告され、ポスター掲示された福音である。(ガラテヤ3:1)

(†心のデボーション03191)

† 心のデボーション 03192

「われ窮乏によりて之を言ふにあらず、我は如何なる状に居るとも、足ることを學びたればなり。」 ピリピ4:11  大正文語訳聖書

「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。」 口語訳聖書

 「程よい愛」

お金はあり過ぎても、なさ過ぎても人を悩ませる。程よくあれば問題はない。愛も同じで、足りないのも過ぎるのも心を悩ませる。では程よい愛とはどのようなものかといえば、お金と同じで簡単には決められない。ただ、程よい愛を受けている人は、満ち足りることができるので、それとわかる。程よい愛は、お金と同じで、もってみないとわからない。まずは、満ち足りることを「学習」することから始めたいと思う。     

(†心のデボーション03192)

† 心のデボーション 03193

「惰る者はこころに慕へども得ることなし 勤めはたらく者の心は豊饒なり」 箴言13:4  明治元訳聖書」

「なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる。」 口語訳聖書

 「神の知恵」

「知恵は人の望むものをもって家全体を満たし、その収穫をもって、彼らの倉を満たす。」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:16  フランシスコ改訳聖書) 「人の望むものを満たす」のは金銭や物ではなく「神の知恵」である。「神の知恵」のもたらす実りをもってあなたの倉を満たせ。

(†心のデボーション03193)

† 心のデボーション 03194

「みよ我けふ汝を萬民のうへと萬國のうへにたて汝をして或は抜き或は毀ち或は滅し或は覆し或は建て或は植しめん」 エレミヤ1:10 明治元訳聖書」

「見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、
あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。」 口語訳聖書

 「新しいいのち」

神は万民の上に立ち、「あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。(エレミヤ1:10) それは「私」という存在に「あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」ことによる。私の内で何を抜かれ、壊され、滅ぼされ、倒されるか。そこに何が建てられ、植えられるかを凝視せよ。それによって国もまた変貌する。
(†心のデボーション03194)

† 心のデボーション 03195

「また人はみな食飮をなしその勞苦によりて逸樂を得べきなり 是すなはち神の賜物たり」 伝道3:13  明治元訳聖書

「またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」 口語訳聖書

 「その後のシンデレラ」

ガラスの靴を残して、首尾よく王子の心をつかまえて結婚したシンデレラは幸せになれたでしょうか。いえいえ、貧しい生き方しか知らないシンデレラは、今度は豊かな生活をおぼえるのに、それはたいへんな苦労をしなければならなかったのです。「玉の輿」は運さえよければ、わりと簡単に乗れますが、座り心地がよくなるにはそれなりの努力を必要とするのです。つまり、「玉の輿」も「並の輿」も苦労の中に幸せがある点で同じということです。

(†心のデボーション03195)

† 心のデボーション 03196

「わが眼をほかにむけて虚しきことを見ざらしめ 我をなんぢの途にて活し給へ」 詩篇119:37  明治元訳聖書」

「わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください。」 口語訳聖書

 「空しいもの」

「空しいもの שׁ‏ָו‏ְא」は「偽り」の意である。それは、わたしの目をほかに向けさせ、真実を遠ざける。人は真実を知ることを恐れるとき、「空しいもの שׁ‏ָו‏ְא」で一時的に心を麻痺させるのかもしれない。

(†心のデボーション03196)

† 心のデボーション 03197

「福音の死にたる者に宣傅へられしは、彼らが肉體にて人のごとく審かれ、靈にて神のごとく生きん爲なり。」 1ペテロ4:6  大正文語訳聖書

「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」 口語訳聖書

 「いつの日か」

フランクルは「強制収容所を生き残る可能性の最も高かった人は、未来に向かって生きることの出来た人たちであった」と報告している。それは「いつの日か、この私自身によってみたされるべき意味に向かって生きること」であった。人は、今はまだ会っていない、いつの日か自分が出会うべき人に向かって、今日を生きることができる。今はまだ満たされていない意味に向かって生きることが出来る。

(†心のデボーション03197)

† 心のデボーション 03198

「(神いひ給ふ 『われ惠の時に汝に聽き、 救の日に汝を助けたり』 と。視よ、今は惠のとき、視よ、今は救の日なり)」 Ⅱコリント6:2  大正文語訳聖書

「神はこう言われる、/「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、/救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」 口語訳聖書

 「恵みの時、救いの日」

「自分が植えもせず、手入れもしない葡萄園から葡萄を摘み集めた者があったであろうか」(バシレイオスBasileiosの言葉) 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。恵みの時は、翌日、翌々日に引き延ばすべきではない。「今」こそが「恵みの時、救いの日」である。

(†心のデボーション03198)

† 心のデボーション 03199

「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書

「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「魂に渇きを持つ人」

「義に飢え渇く人々」とは「魂に渇きを持つ人」である。渇いて地を彷徨うのは苦しい。しかし、彼らは「幸い」である。「魂に渇きのない平安」こそが「恐るべき枯渇」であろう。渇きの底に座りながら自らの渇きを知らない。

(†心のデボーション03199)

† 心のデボーション 03200

「われは眞實のみちをえらび 恒になんぢのもろもろの審判をわが前におけり」 詩篇119:30  明治元訳聖書」

「わたしは真実の道を選び、あなたのおきてをわたしの前に置きました。」 口語訳聖書

 「真実」

「人間は(ギリシャの格言によると)、事物自体によってではなく、事物についていだく考えによって苦しめられている」(モンテーニュ『エセー』より) その苦しみから人を開放するのは「真実の道を選び取る」ことであると詩篇は教える。たとえ、それが魂に厳しい経験であっても、真実を「わたしの前に置く」以外に魂の安らぎはやってこない。

(†心のデボーション03200)

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