心のデボーション318

デボーション1
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† 心のデボーション 03171

「我らは神の中に生き、動きまた在るなり。汝らの詩人の中の或者どもも「我らは又その裔なり」と云へる如し。」 使徒17:28  大正文語訳聖書

「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『われわれも、確かにその子孫である』。」 口語訳聖書

 「神のロゴス」

神は「ことばλόγος」によって天と地を創造され、神のかたちに人間を創造された。(ヨハネ1:1~3) 万物は「ことばλόγος」によって創造され、「ことばλόγος」の内に「生かされ、動き、存在する」のである。(使徒17:28)

(†心のデボーション03171)

† 心のデボーション 03172

「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。」 エレミヤ15:18  明治元訳聖書

「どうしてわたしの痛みは止まらず、傷は重くて、なおらないのですか。あなたはわたしにとって、水がなくて人を欺く/谷川のようになられるのですか。」 口語訳聖書

 「悲しみの鎖」

痛みがいつまでも続くのは、つらい過去に心がつなぎ止められてしまったからかもしれない。                   悲しみの鎖は心の傷がいえるのを許さないのである。私たちは過去をもっと振り返った方がよいかもしれない。   たとえ、それが痛みにみちているとしても、かけがえのない何かがあって、心を呼び戻しているのかもしれないからである。希望とは、いやされた過去のことではないだろうか。

(†心のデボーション03172)

† 心のデボーション 03173

「イエス彼らに目を注めて言ひ給ふ『これは人に能はねど、神は凡ての事をなし得るなり』」 マタイ19:26 大正文語訳聖書

「イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」 口語訳聖書

 「沈思」

「人にはそれはできない ἀδύνατος」は「為し得ない、不可能な、能力がない」事柄である。理解することが不可能と思える事柄を、神の「ことばλόγος」は明らかにする。人は神の前に沈黙し、神の言葉を聞くべきである。(マタイ19:26)

(†心のデボーション03173)

† 心のデボーション 03174

「おのおの吝むことなく、強ひてすることなく、その心に定めし如くせよ。神は喜びて與ふる人を愛し給へばなり。」 Ⅱコリント9:7  大正文語訳聖書

「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」 口語訳聖書

 「貯蔵してあるものの中から」

「自ら心で決めたとおり προαιρέω」は「選ぶ、決める」の意であり、ギリシャ語προαίρεσιςは「決断能力」の意である。「貯蔵してあるものの中から出してくる」の意に用いる。神は「あらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかた」である。(Ⅱコリント9:7 口語訳聖書)。無尽蔵に貯蔵された良きわざの中から最善のものを取り出して、ことを為せ。(Ⅱコリント9:7)

(†心のデボーション03174)

† 心のデボーション 03175

「われ永遠になんぢの帷幄にすまはん我なんぢの翼の下にのがれん セラ」 詩篇61:4  明治元訳聖書

「わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ〕」 口語訳聖書

 「御翼の陰」

作者は祈りを「御翼の陰」と歌う。心が衰え果てるとき、身を避けるところである。そこは高ぶる感情の落ちつくところでもある。神は怒りや悲しみを。御翼の陰に包んでくださる。そのとき「及びもつかないほどの高い岩の上に」移される。そのためにイエスは、「自分の奥まった部屋に入り、戸をしめて、隠れたところにおられる神に祈れ」と教えられたのである。(マタイ6:6)

(†心のデボーション03175)

† 心のデボーション 03176

「テオピロよ、我さきに前の書をつくりて、凡そイエスの行ひはじめ教へはじめ給ひしより、」 使徒1:1  大正文語訳聖書

「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、」 口語訳聖書

 「御言葉」

ルカは先の「第一巻(ルカによる福音書)」に「イエスが行い、また教えはじめ(られたことごとくを)」書き記した。「イエスが行い、また教えはじめ(られたことごとくを)ὧν ἤρξατο ὁ ἰησοῦς ποιεῖν τε καὶ διδάσκειν」は「イエスの爲し始め、また敎へ〔始め〕給へるすべての事」(永井直治訳聖書)である。主イエスには「敎へ〔始め〕給へる事」は即、「為し始められた事」であった。神の口からでる御言葉は、行為として成し遂げられるまでは神の口に戻らない。

(†心のデボーション03176)

† 心のデボーション 03177

「アダム其妻の名をヱバと名けたり其は彼は群の生物の母なればなり」 創世記3:20  明治元訳聖書

「さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。」 口語訳聖書

 「いのちを抱く」

アダムは死の宣告の後に、妻を「エバ」と呼んでいる。「エバ」という名は「生きているもの、いのち」を意味する。旧約聖書のギリシャ語訳はこのところを「アダムはその妻の名をゾーエー(いのち)と呼んだ」と訳す。アダム以来、男は妻を「自分のいのち(ゾーエー)」として抱かずにはいられないのである。                    それは私たちを「永遠への思い」に導く。

(†心のデボーション03177)

† 心のデボーション 03178

「神の言は生命あり、能力あり、兩刃の劍よりも利くして、精神と靈魂、關節と骨髓を透して之を割ち、心の念と志望とを驗すなり。」 へブル4:12  大正文語訳聖書

「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」 口語訳聖書

 「心の思い」

「神の言 λόγος」は「生きていて、力があり」、「心の思いと志とを見分けることができるκριτικὸς ἐνθυμήσεων καὶ ἐννοιῶν καρδίας」(口語訳聖書)。「心の思いἔννοια」は思考、熟考、考え、概念」の意である。「神の言 λόγος」を通して、人は見ずらの「思考、概念ἔννοια」を知り、神に関する「概念、心の思いἔννοια」を知ることが許される。(へブル4:12)

(†心のデボーション03178)

† 心のデボーション 03179

「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」 マタイ5:5 大正文語訳聖書

「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」 口語訳聖書

 「柔和な人」

「柔和な人」を性格や言葉、態度が穏やかで荒々しくない人と考えると間違える。その顔つきから物腰まで「温厚」な顔の下に思わぬ過激が潜んでいることがある。

(†心のデボーション03179)

† 心のデボーション 03180

「かくのごとき數多の譬をもて、人々の聽きうる力に隨ひて、御言を語り、」 マルコ4:33  大正文語訳聖書

「イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。」 口語訳聖書

 「聞く力」

「聞く力」のために主に祈れ。主は「聞く力にしたがって、御言を語られ(る) καθὼς ἠδύναντο ἀκούειν」からである。「聞く力にしたがって」は直訳で「聞き従うことができるゆえに」である。神に聞き従う力も神の恵みによる。(マルコ4:33)

(†心のデボーション03180)

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