心のデボーション317

デボーション1
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† 心のデボーション 03161

「智慧をえ聰明をえよ これを忘るるなかれ また我が口の言に身をそむくるなかれ」 箴言4:5  明治元訳聖書は「

「それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。」 口語訳聖書

 「知恵の完熟」

「主を恐れることは、知恵の完熟であり、忠実な人々は、その実で満たされる。」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:16  バルバロ訳聖書) 「知恵の完熟 πλησμονὴ σοφίας」は「満たす、盈満」の意。主を畏れる者の内に満ちくる恩寵であり、人をそのわわなる実をもて飽かしむ。

(†心のデボーション03161)

† 心のデボーション 03162

「なんぢら拙者のつたなきを愛し 嘲笑者のあざけりを樂しみ 愚なる者の知識を惡むは幾時までぞや」 箴言1:22  明治元訳聖書

「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。」 口語訳聖書

 「あざけり」

女性が男性を攻撃する手段で、最も効果的で危険なのはあざけりかもしれない。自分の失敗を女性から指摘される、ただそれだけで男性は理性を失い、取り乱して逆上したりする。そして、あざけりから自分を守ろうとして、力で支配しようとする。女性があざけりを楽しむという危険な誘惑に陥らないためには、強い自己が必要になる。愛はもっと深いところで相手を肯定する強い意志である。

(†心のデボーション03162)

† 心のデボーション 03163

「我等はみな面帕なくして、鏡に映るごとく主の榮光を見、榮光より榮光にすすみ、主たる御靈によりて主と同じ像に化するなり。」 Ⅱコリント3:18  大正文語訳聖書

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 口語訳聖書

 「神のかたち」

「主と同じ姿に変えられていく τὴν αὐτὴν εἰκόνα μεταμορφούμεθα」。「同じ姿(かたち)εἰκών」は創世記1:27「神は自分のかたち(εἰκών)に人を創造された。すなわち、神のかたち(εἰκών)に創造し、男と女とに創造された」とあり、コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたち(εἰκών)であって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」とある。主イエスキリストにおいて人は、栄光から栄光へと、自身を人間たらしめる「神のかたち」に変えられていく。それは見ることのできない「霊なる種の働き」によるのである。(Ⅱコリント3:18)

(†心のデボーション03163)

† 心のデボーション 03164

「我らは神の中に生き、動きまた在るなり。汝らの詩人の中の或者どもも「我らは又その裔なり」と云へる如し。」 使徒17:28  大正文語訳聖書

「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『われわれも、確かにその子孫である』。」 口語訳聖書

 「神を見出す」

聖書は人間の生き、動き、存在しているもの、すなわち「いのち」について語る。その人が生き、動き、存在する、まぎれもないいのちに神を見出すことができると約束する。(使徒17:27)人は神の内に「生き、動き、存在しているからである」。(使徒17:28)

(†心のデボーション03164)

† 心のデボーション 03165

「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む」 詩篇23:4 明治元訳聖書

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」 口語訳聖書

 「死の陰の谷」

何かの挫折から、それまで情熱を感じていた仕事がつまらないものに思えたり、場合によっては深刻な人間不信に陥ったりする。「緑の牧場」に行くには、しばしば「死の陰の谷」を通らなければならない。しかし「死の陰の谷」では、この道が「緑の牧場」への通過点だということが分かれば、そう悲観的な気分にならない。詩人は「死の陰の谷」でも「私の杯はあふれています」と歌う。

(†心のデボーション03165)

† 心のデボーション 03166

「されど誰も舌を制すること能はず、舌は動きて止まぬ惡にして死の毒の滿つるものなり。」 ヤコブ3:8  大正文語訳聖書

「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。」 口語訳聖書

 「自己」

人間は「あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた」(ヤコブ3:7  口語訳聖書)としても、身体の小さな肉にすぎない「舌」、すなわち「自己」を制することができない。

(†心のデボーション03166)

† 心のデボーション 03167

「呼はりて言ふ『人々よ、なんぞ斯かる事をなすか、我らも汝らと同じ情を有てる人なり、汝らに福音を宣べて斯かる虚しき者より離れ、天と地と海とその中にある有らゆる物とを造り給ひし活ける神に歸らしめんとするなり。』」 使徒14:15  大正文語訳聖書

「言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。」 口語訳聖書

 「キバのない象」

キバのない象が増えているという。象牙をねらう密猟者から逃れるために、自然が選んだ方法だという。アリストテレスは「自然は無駄なものや余分なものを作らない」という。しかし、キバのない象は、枝を上手に折ることも、土を掘って干からびた大地から水を飲むことも、岩を砕いて塩をなめることもできない。キバのない象は生存に適さないのである。人間がかかわると自然は本当に大切なものを選ぶこともできなくなるのだろうか。

(†心のデボーション03167)

† 心のデボーション 03168

「カイン、ヱホバの前を離て出でエデンの東なるノドの地に住り」 創世4:16  明治元訳聖書

「カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。」 口語訳聖書

 「カインのしるし」

カインは弟アベルを殺害し、地から追放された。神はカインが地の人々から復讐されないように「しるし」を与えられ、カインは「エデンの東のノデの地に棲んだ。(創世記4:14~15) 「ノデ」は「さすらい」の意味である。カインは罪により地をさまよう者となった。アダムの子としての自己を失い、何者であるかを失った。「カインのしるし」を見る者は決して彼に近づかない。しかし、十字架にかかり給うたイエス・キリストのみが「カインのしるし」を身に負う者に近づき、新しき名を与えられるのである。

(†心のデボーション03168)

† 心のデボーション 03169

「モーセはその人と爲(なり)温柔(おんじう)なること世の中の諸の人に勝れり」 民数12:3 明治元訳聖書

「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。」 口語訳聖書

 「温柔(おんじう)」

モーセがエチオピアの女性を妻としたことでアロンとミリアムがモーセを非難したとき、モーセは自分のことを「その人と爲(なり)温柔(おんじう)なること世の中の諸の人に勝れり」と語っている。(民数記12:3)「温柔(おんじう)」は「柔和」の意味である。モーセは、人から非難されても、自分は「世の中の誰よりも柔和なもの」だから「怒らない」といいたいのではない。「柔和 πραΰς  プラゆス」は「温和な、柔和な」の意味である。この語に相当するヘブル語は「gn”x; a-nag  アナウ」で「貧しい人」「打ち砕かれた心、捕われた心、つながれている人」の意味である。モーセは、自分は「神を畏れる弱き人、打ち砕かれた人」であることにおいて「世の中の諸の人に勝れる」と語ったのである。(詩篇22:26;25:9)

(†心のデボーション03169)

† 心のデボーション 03170

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1  大正文語訳聖書

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書

 「ことば ὁ λόγος」と「道(TAO)」

「ことば ὁ λόγος」を漢訳聖書(新約全書美華書店1863年)は「道」と訳し、明治元訳聖書は「太初(はじめ)に道(ことば)あり道(ことば)は神偕にあり道(ことば)は即ち神なり」として「道」を「ことば」と読ませた。中国における「道(TAO)」は老子、荘子を基とする、人間のまもるべき「筋道、条理」を意味する。自然の気を取り入れ、自然と一体となることにより心を整えることを目指す。その後、大正文語訳聖書は「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」と訳し、「ことばὁ λόγος」が「道(TAO)」とは異なる概念をもつことを明らかにしたのである。(ヨハネ1:1)

(†心のデボーション03170)

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