心のデボーション316

デボーション1
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† 心のデボーション 03151

「そのあはれみは代々 かしこみ恐るる者に臨むなり。」 ルカ1:50  大正文語訳聖書

「そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。」 口語訳聖書

 「主を畏れる」

「主をおそるるは知恵の成就なり。知恵はその実をもて人びとを飽かしむべし。」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:16  日本聖公会訳聖書  「おそれる φοβέω」は「恐れる、恐怖する」の意味とともに、「神への畏れ(敬い、驚愕)」の意味を含む。(ルカ1:50) 明治元訳聖書は「畏るる者」、大正文語訳聖書は「かしこみ恐るる者」と訳す。神への畏れ φοβέω はその実によって知られる。

(†心のデボーション03151)

† 心のデボーション 03152

「汝ら貪れども得ず、殺すことをなし、妬むことを爲れども得ること能はず、汝らは爭ひまた戰す。汝らの得ざるは求めざるに因りてなり。」 ヤコブ4:2 大正文語訳聖書

「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。」 口語訳聖書

 「次を欲しがる」

「次の羊」と書いて「羨 うらやむ」と読む。うらやむ人は、持っていない人ではない。羊は充分いても、「次を欲しがる」のである。彼は欲しいものを手に入れるのに手段を選ばない。「次の羊」しか見えなくなったら、この病気にかかったと考えてさしつかえない。治療は簡単、「自分の羊」に気づけばよい。

(†心のデボーション03152)

† 心のデボーション 03153

「我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ」 ガラテヤ1:10  大正文語訳聖書

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」 口語訳聖書

 「キリストの僕」

「キリストの僕 δοῦλος」は「奴隷」の意である。その時代の奴隷は主人の名を熱した焼き鏝で印した。(W・バークレー)パウロはその身にキリストの奴隷の印を帯び(焼き入れされ)、「主人の僕」とされたことを誇り高く喜ぶ。(ガラテヤ1:10 )

(†心のデボーション03153)

† 心のデボーション 03154

「信仰に由りてアブラハムは試みられし時イサクを献げたり、彼は約束を喜び受けし者なるに、その獨子を献げたり。」 へブル11:17  大正文語訳聖書

「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。」 口語訳聖書

 「神の約束」

「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と約束にもかかわらず、神はアブラハムにイサクを全焼の生贄としてささげるように求められた。アブラハムは「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と信じてイサクをささげ、イサクを取り戻した。(創世22:1~14) 神の約束はすべてイエス・キリストによって成就する。復活への信仰は神の約束を大胆に信じ、行動させる。

(†心のデボーション03154)

† 心のデボーション 03155

「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」 マタイ5:5 大正文語訳聖書

「柔和な人は幸いである、その人は地を受け継ぐであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「生命の力」

ホイヴェルス神父は「柔和 πραΰς」とは「世の波風を受けとめて、それを自分に役立たせていく者」で「その人は抱擁する力と転換する力をもっている」という。「生命の力」である。(ホイヴェルス神父『日本人への贈り物』)

(†心のデボーション03155)

† 心のデボーション 03156

「主人いふ「いな、恐らくは毒麥を拔き集めんとて、麥をも共に拔かん。」 マタイ13:29  大正文語訳聖書

「彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。」 口語訳聖書

 「根こぎ」

「毒麦のたとえ」(マタイ13:24~30)で、敵の撒いた毒麦が発芽したので、「抜きましょうか」という僕たちに農園の主人は「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。」として収穫のときまで「両方ともそのままにしておきなさい」と命じる。「抜く ἐκριζόω」は「根を引き抜く」の意で「根こぎにする」である。

悪しきものが「根こぎ」にされないのはよきものが「根こぎ」にされないためである。しかし、「生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり」伝道3:2 (口語訳聖書) 主人は時を知っている。悪しきものが「根こぎ」にされ火に投入する神の国の日がやってくる。

(†心のデボーション03156)

† 心のデボーション 03157

「われ婚姻したる者に命ず(命ずる者は我にあらず、主なり)妻は夫と別るべからず」 Ⅰコリント7:10  大正文語訳聖書

「更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。」 口語訳聖書 

 「ぬれ落ち葉」

雨にぬれた落ち葉は道路にべっとり張りついてはがれない。定年退職したご主人が何もすることがなくて奥さんの後をうるさくつきまとうのを「ぬれ落ち葉症候群」という。しかし、ぬれ落ち葉にもそれなりの風情はある。定年後、何もすることがなくなったら、だんこ「ぬれ落ち葉」でいこうという人がいてもよい。追い払ってもムダである。夫婦で一緒に「ぬれ落ち葉」をやるのも悪くはない。(ちなみに、ぬれ落ち葉は最高の肥料である)

(†心のデボーション03157)

† 心のデボーション 03158

「兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に「まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ」と言はん」』」 マタイ13:30  大正文語訳聖書

「収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。」 口語訳聖書

 「深い関心を持って」

「毒麦のたとえ」(マタイ13:24~30)で、敵の撒いた毒麦が発芽したので、「抜きましょうか」という僕たちに農園の主人は「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。」として収穫のときまで「両方ともそのままにしておきなさい」と命じる。「そのままにしておく ἀφίημι 」は「捨て置く、置き去りにする、見放す、かまわすにおく、残す」の意である。何もしないのではなく問題の成熟を待つ。無関心ではなく、神の時がくるまで深い関心をもって「捨て置く」。(マタイ13:24)

(†心のデボーション03158)

† 心のデボーション 03159

「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」 マタイ5:5 大正文語訳聖書

「柔和な人は幸いである、その人は地を受け継ぐであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「柔和」

「柔和 πραΰς  プラゆス」には「穏やかな」「辛抱強い」という意味がある。彼は己の「貧しさ、弱さ」を穏やかに辛抱強く抱きしめ、地に生きる。柔和な人は、たとえ地を受け継いだとしても、やはり「柔和な人」である。彼は地の支配者の顔をしていない。 

(†心のデボーション03159)

† 心のデボーション 03160

「イエス心に深く歎じて言ひ給ふ『なにゆゑ今の代は徴を求むるか、まことに汝らに告ぐ、徴は今の代に斷えて與へられじ』」 マルコ8:11  大正文語訳聖書

「イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。」 口語訳聖書

 「しるし」

「しるし σημεῖον」は「合図、目印、あかし」であり「驚くべき働き」を意味する。パリサイ人はイエスに「しるし」を求めたが、「しるし」は「ヨナのしるし」(マタイ16:4 死と復活のしるし)以外に与えらていない。神の与えるしるし以外を求めるのは不信仰である。

(†心のデボーション03160)

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