心のデボーション315

デボーション1
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† 心のデボーション 03141

「イエス・キリストの誕生は左のごとし。その母マリヤ、ヨセフと許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ偕にならざりしに、聖靈によりて孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顯れたり。」 マタイ1:18  大正文語訳聖書

「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。」 口語訳聖書

 「許嫁(いいなづけ)」

ヨセフとマリヤは婚約していた。ユダヤでは「婚約 μνηστεύω」は結婚とほぼ同等の意味に扱われ、婚約者マリヤは「母マリヤ τῆς μητρὸς αὐτοῦ (彼〔ヨセフ〕の母)」と呼ばれている。μητρὸς  は μητρά「子宮、胎」から来た言葉である。(マタイ1:18) 漢訳聖書「爲約瑟所聘」、約瑟(ヨセフ)は「聘(てい)」を「爲(なし)」た。「聘(てい)」は「使者を派遣して友好関係を結ぶ」の意味で、結納をおさめて婚約する(めとる)の意であり、「定聘」は正式に婚約することであり、明治元訳聖書は「聘定」として「聘定(いいなづけ)爲る(なせる)」と訳す。

(†心のデボーション03141)

† 心のデボーション 03142

「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を與へられん爲なり。ただ其の自由を肉に從ふ機會となさず、反つて愛をもて互に事へよ」 ガリラヤ5:13  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」 口語訳聖書

 「互いに仕える」

愛はいつも足りないか、過ぎるか、どちらかにかたむく。ほどほどを知らないというよりも、それが愛の性格なのである。愛の適温は絶えず変わる。ほどよく感じられたことが、いつか足りなく感じられたり、逆に負担に思えたりする。愛は「互いに仕える」ことで、相手が今必要としていることにかかわる。仕える心があれば、適温を感じるのは難しいことではない。

(†心のデボーション03142)

† 心のデボーション 03143

「神の子イエス・キリストの福音の始。」 マルコ1:1  大正文語訳聖書

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書

 「福音の始まり」

マルコ福音書の冒頭のことばは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ1:1  口語訳聖書)である。漢訳聖書和合本は「神之子、耶穌基督之福音、其始也」と訳す。「福音の始め ᾽Αρχὴ τοῦ εὐαγγελίου」の「始め ἀρχή 最初、発端、源、起源、根源」をあらわす。漢字「始」は「根本、発端」の意から「新たに開始される」ものに注目する。福音はその「根源、発端」よりはじまり、新たに開始される神の業のことごとくを受け取ることである。(マルコ1:1)

(†心のデボーション03143)

† 心のデボーション 03144

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)。」 マタイ1:1  大正文語訳聖書

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」 口語訳聖書

 「イエス・キリストの系図」

漢訳聖書 新約全書美華書店1863年は「耶穌基督族」とし、聖經新舊約全書 繁體和合本は「基督的家譜」と訳す。明治元訳聖書は「系圖」と訳す。「譜」は元来「布(布列)」の意であるが、「家譜」「譜」は次々と継がれる系統の意である。「イエス・キリストの系図」はアブラハムの信仰の血の繋がりの「譜」である。信仰者はみなそれそれの「イエス・キリストの系図(譜)」を持つ。記憶せよ。

(†心のデボーション03144)

† 心のデボーション 03145

「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書

「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「義」

漢字「義」は、「羊」+「我」で美しく見事な羊のこと。物事が正しく制裁されることを意味する。聖書においては、「義 δικαιοσύνη  ディカイオスゆネー」は「神のことばを守る」の意味である。「義を切望する人々」とは「神のことばを渇望する人々」のことである。その人々は羊飼いが満腹するまで草を食べさせるように満たされる。(マタイ5:6)

(†心のデボーション03145)

† 心のデボーション 03146

「神の子イエス・キリストの福音の始。」 マルコ1:1  大正文語訳聖書

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書

 「天のたすけ」

「福音 εὐαγγέλιον」は「εὔ  + ἀγγέλιον < ἀγγέλλω 報告する」から来ており、「よきおとずれ、喜ばしい音信、吉報」の意である。救いについてのキリストの喜ばしき音信、福音を意味する。(マルコ1:1)「福音」という訳語は、初期の近代中国語訳である「漢訳聖書 新約全書美華書店1863年」にはじめて用いられた。漢字「福」は「天のたすけ」の意である。(マルコ1:1)

(†心のデボーション03146)

† 心のデボーション 03147

「わが體を打ち擲きて之を服從せしむ。恐らくは他人に宣傳へて自ら棄てらるる事あらん。」 Ⅰコリント9:27  大正文語訳聖書

「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」 口語訳聖書

 「意味あること」

我を忘れるほどに熱中できるものは、それ自体としては余り意味がないことが多いのではないか。それに比べて、意味あることに取り組む時の気の重さはどうか。体は一向に動かず、自分を「打ちたたいて」従わせなければならない。我を忘れるほど熱中できることが、同時に意味あることならいうことはない。しかし、この二つは相性が悪く、結びつけようなどと思わないほうが良いかもしれない。

(†心のデボーション03147)

† 心のデボーション 03148

「なんぢ明日のことを誇るなかれ そは一日の生ずるところの如何なるを知ざればなり」 箴言27:1  明治元訳聖書

「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを/知ることができないからだ。」 口語訳聖書

 「コペルニクス的転換」

V.Eフランクルのロゴセラピー Logotherapy は「ロゴス λόγο (意味)」による「セラピー therapy(癒し)で、人が見ずらかの存在といのちの意味を見出すことを助ける。フランクルは著書『夜と霧』に人生の意味について、「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」として「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者」であるという「コペルニクス的転換」がなされる時、人生の意味の問題に正しく答えることができると教えている。(V.Eフランクル『夜と霧』より)

(†心のデボーション03148)

† 心のデボーション 03149

「『視よ、處女(おとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱(とな)へられん』之を釋(と)けば、神われらと偕に在すといふ意(こころ)なり』」 マタイ1:23  大正文語訳聖書

「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。 口語訳聖書

 「神われらと偕に在す」

「知恵は、その人の中で永遠に住まい、その子孫とともに永久にとどまる。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:15  フランシスコ会訳聖書) 「神われらと共にいます ὅ ἐστιν μεθερμηνευόμενον Μεθ᾽  ἡμῶν ὁ θεός.」は「我らと共に<我らの中央に、我らの真中に、我らの間に、我らと共に、我らと連結して」の意である。知恵は「我らの内に「永遠に」住まわれる。

(†心のデボーション03149)

† 心のデボーション 03150

「國のうち五穀ゆたかにしてその實はレバノンのごとく山のいただきにそよぎ 邑の人々は地の草のごとく榮ゆべし」 詩篇72:16  明治元訳聖書

「国のうちには穀物が豊かにみのり、その実はレバノンのように山々の頂に波打ち、人々は野の草のごとく町々に栄えるように。」 口語訳聖書

 「いなご地」

三河・遠江の農民たちが伝える農業技術や知識を集大成した『百姓伝記』に、よく肥えた地を「いなご地」と呼ばれている。『五穀万物の出来る事、わくがごとく』の意である。地は神の祝福された「いなご地」である。人間の欲望がその豊かさを損なう。

(†心のデボーション03150)

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