† 心のデボーション 03131
「女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ『われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』」 ヨハネ8:11 大正文語訳聖書
「女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。」 口語訳聖書神
「まるごと赦す」
まるごと赦された人だけが、まるごと赦すことができる。イエスは姦淫の場で捕らえられた女性に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」といわれた。イエスはこの女性を、彼女が生きてきた世界に遣わされる。それは姦淫の現場を密かにつきとめ、男は逃がして女だけを告発する悪意に満ちた世界であった。悪意に満ちた世界をまるごと赦すためにイエスは私たちを遣わされるのである。
(†心のデボーション03131)
† 心のデボーション 03132
「願くはわれらにおのが日をかぞふることををしへて智慧のこころを得しめたまへ」 詩篇90:12 明治元訳聖書
「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」 口語訳聖書
「知恵の心」
「主を畏れることは、知恵の初め。知恵は信仰のある者とともに母の胎内で造られた。」(旧約聖書外典ベン=シラの知1:1 フランシスコ会訳) 「主を畏れる知恵」は「母の胎内」で造られるとベン=シラは教える。母は神からの知恵を子に伝える。人は生まれながらに内に「神への畏れ」を知る者である。
(†心のデボーション03132)
† 心のデボーション 03133
「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、」 Ⅰヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――」 口語訳聖書
「ねんごろに観る」
「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(口語訳聖書)を、明治元訳聖書は「我儕が聞また目に見懇切に觀わが手捫りし所のもの」と訳す。「目に見 懇切(ねんごろ)に觀(み)」には、一度見、次に懇切(真心を究めて誠実に)調べるの意がある。この箇所のギリシャ語聖書はὃ ἑωράκαμεν τοῖς ὀφθαλμοῖς ἡμῶνで、目で見たὁράωものを、さらにθεάομαι「熟視する、じっと見つめる」の意である。(Ⅰヨハネ1:1)
(†心のデボーション03133)
† 心のデボーション 03134
「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、」 Ⅰヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――」 口語訳聖書
「手でさすって」
ヨハネは「いのちのことば」を「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわった」(口語訳聖書)と表現する。「手でさわった」(口語訳聖書)は明治元訳聖書では「手捫りし所のもの」と訳し「手さわはりし所」と読ませる。「捫」は「なでる」である。神の「いのちのころば」を親しくとり、手でさするかのごとくに読む。この箇所のギリシャ語はψηλαφάω「手で触れる、手探りで見つける」の意である。(Ⅰヨハネ1:1)
(†心のデボーション03134)
† 心のデボーション 03135
「常に喜べ」 Ⅰテサロニケ5:16 大正文語訳聖書
「いつも喜んでいなさい。」 口語訳聖書
「平凡なわたし」
平凡な自分を喜べるなら、人生は楽しいものになる。人にとって大きな喜びは、自分を素直に表現できることで。あろう。平凡を喜べる人は、人と深くかかわることができる。この喜びは理屈ではなく、シンプルな感情である。そこに居る、ただそれだけで嬉しさが感じられ、励まされる。平凡な自分を喜ぶには、神の前で自分を受け入れることである。平凡であることは本当は非凡なことかもしれない。
(†心のデボーション03135)
† 心のデボーション 03136
「イエス・キリストの僕にしてヤコブの兄弟なるユダ、書を召されたる者、すなはち父なる神に愛せられ、イエス・キリストの爲に守らるる者に贈る。」 ユダ1:1 大正文語訳聖書
「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。」 口語訳聖書
「衆人」
ユダの手紙の著者ユダは「父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々 κλητός」(口語訳聖書)に手紙を送る。明治元訳聖書は「召された人々」に「イエス・キリストの爲に守らるる衆人に贈る」と訳出する。「衆人」は「多く(大勢)の人々、普通の人々」である。ユダは「イエス・キリストに守られている普通の人々」を忘れていない。神ときりすとは「普通の人々」を愛され、特別なものとして召され、守られる。(ユダ1:1)
(†心のデボーション03136)
† 心のデボーション 03137
「惡者はあしき人の獲たる物をうらやみ 義者の根は芽をいだす」 箴言12:12 明治元訳聖書
「悪しき者の堅固なやぐらは崩壊する、正しい人の根は堅く立つ。」 口語訳聖書
「ゆるがない心」
どんなに慎重に行動しても、人生には失敗がある。ただ、これは失敗だとすぐに決めつけないことである。投げ出さないで、じっと問題をあたためていると、突然、道が開けてくることもある。「正しい者の根」とは、うまくいかない状況にあっても「ゆるがない心」を持つ人のことではないか。失敗という土壌に根をのばし、「本当の私」という芽を出す。
(†心のデボーション03137)
† 心のデボーション 03138
「これイエス・キリストの默示なり。即ち、かならず速かに起るべき事を、その僕どもに顯させんとて、神の彼に與へしものなるを、彼その使を僕ヨハネに遣して示し給へるなり。」 黙示1:1 大正文語訳聖書
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」 口語訳聖書
「迅速に」
ヨハネは「かならず速かに起るべき事 ἃ δεῖ γενέσθαι ἐν τάχει」として黙示録を書き送る。明治元訳聖書は「迅速τάχοςに起るべき事」と訳す。「迅速(迅疾)」は「極めて早く」の意である。「終末」は「極めて早く起こるべきこと」である。(黙示1:1)
(†心のデボーション03138)
† 心のデボーション 03139
「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」 マタイ5:5 大正文語訳聖書
「柔和な人は幸いである、その人は地を受け継ぐであろう」 フランシスコ会訳聖書
「生命の力」
ホイヴェルス神父は「柔和」とは「世の波風を受けとめて、それを自分に役立たせていく者」で「その人は抱擁する力と転換する力をもっている」という。「生命の力」である。(ホイヴェルス神父『日本人への贈り物』)
(†心のデボーション03139)
† 心のデボーション 03140
「人は心におのれの途を考へはかる されどその歩履を導くものはヱホバなり」 箴言16:9 明治元訳聖書
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」 口語訳聖書
「あゆみ」
人は多くのことを企てる。しかし、「その歩みを導く者は主である」(口語訳聖書) 「歩み 」に明治元訳聖書は「歩履」という字をあてて「あゆみ」と読ませる。「履」は「足の裏で踏む」の意である。「履行」の意であろう。神は人の思いに添われ、その足の裏で踏む所をことごとく導き給う。「歩み」のヘブライ語צַעַדは「足取り」の意であり、神はその「足取り צַעַד」を「導かれる כּון(堅く立てられる、据えられる、確立される)」。(箴言16:9)
(†心のデボーション03140)
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