† 心のデボーション 03121
「また我に言ひたまふ『事すでに成れり、我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり、渇く者には價なくして生命の水の泉より飮むことを許さん。』」 黙示21:6 大正文語訳聖書
「そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。」 口語訳聖書
「終わりを全うし」
「主を畏れる者は、終わりを全うし、臨終の時には、祝福を受けるであろう」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:13 フランシスコ会訳聖書) ことを始め給う神は、ことの終わりを全うする神である。人の求める「終わり」は終わりではない。神をして「ことの終わり」をなさしめよ。平安は常に信仰によって保たれる。臨終の時がいかなる苦しみの中にあったとしても、神がともにおられる臨終は「祝福」である。彼は「終わりを全うした」のである。
(†心のデボーション03121)
† 心のデボーション 03122
「キリストの愛われらに迫れり。我ら思ふに、一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり。」 Ⅱコリント5:14 大正文語訳聖書
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。」 口語訳聖書
「キリストの愛」
手を洗わないではいられないという思いを追い払おうとすると、ますます不安がつのる。御言葉の「強く迫っているσυνέχω (「取り囲む」新改訳聖書)」は「四方から包囲し、からめとる」という意味である。その人は「手を洗う」という思いに「からめとられしまった(συνέχω)」のである。しかし、聖書は、その時もキリストの愛があなたを「からめとっている(συνέχω)」と告げる。手を洗わなければ気のすまないあなたをキリストの愛が取り囲む。(Ⅱコリント5:14)
(†心のデボーション03122)
† 心のデボーション 03123
「パウロ、シルワノ、テモテ我儕の父なる神および主イエス・キリストに在テサロニケ人の教會に書を贈る」 Ⅱテサロニケ1:1 大正文語訳聖書
「パウロ、シルワノ、テモテ、書を我らの父なる神および主イエス・キリストに在るテサロニケ人の教會に贈る。」 口語訳聖書
「神および主イエス・キリストに在る」
「神および主イエス・キリストに在る」の「在」は「存在、所在、位置」を現わし、「存在する、生きている」の意である。ギリシャ語聖書は「ἐν θεῶ πατρὶ ἡμῶν καὶ κυρίῳ ἰησοῦ χριστῶ」であり、「神および主イエス・キリストの中に(在る)」である。われらの「存在、所在、位置」は神の中にあり、神の中に生きて在る。(Ⅱテモテ1:1)
(†心のデボーション03123)
† 心のデボーション 03124
「我らの救主なる神と我らの希望なるキリスト・イエスとの命によりて、キリスト・イエスの使徒となれるパウロ、」 Ⅰテモテ1:1 大正文語訳聖書
「わたしたちの救主なる神と、わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命によるキリスト・イエスの使徒パウロから、」 口語訳聖書
「主にある聖徒」
「キリスト・イエスとの命によりて」(大正文語訳聖書)は明治元訳聖書は「イエス・キリストの命に遵ひて」と訳す。「遵う」は「従う(流れに従う)」、「随う(人について行く)」に対して、「(道理、法則に)したがう(守る)」の意である。ギリシャ語聖書は「κατ᾽ ἐπιταγὴν θεοῦ σωτῆρος ἡμῶν καὶ χριστοῦ ἰησοῦ」で、「κατά (~にしたがって、~に向かって)に導かれている。聖徒は神とイエス・キリストの命じるところに沿って(守って)生きる。(Ⅰテモテ1:1)
(†心のデボーション03124)
† 心のデボーション 03125
「言たまはく汝もし善く汝の神ヱホバの聲に聽したがひヱホバの口に善と見ることを爲しその誡命に耳を傾けその諸の法度を守ば我わがエジプト人に加へしところのその疾病を一も汝に加へざるべし其は我はヱホバにして汝を醫す者なればなりと 」 出エジプト15:26 明治元訳聖書
「言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。」 口語訳聖書
「いやし主」
神はいやすために人を打たれる。その打ち傷によって、人は新しくされる。一刻、人はその痛みに身をすくめ、背を丸める。それが祈りの姿勢であることを、人は知っている。逆らわず、静かに息をする。神の与えてくださるものに意味のないものは一つもない。痛みの中で、人は私であることがわかるのである。
(†心のデボーション03125)
† 心のデボーション 03126
「外にて汝の工をととのへ田圃にてこれを自己のためにそなへ 然るのち汝の家を建よ」 箴言24:27 明治元訳聖書
「外で、あなたの仕事を整え、畑で、すべての物をおのれのために備え、その後あなたの家を建てるがよい。」 口語訳聖書
「頭の濡れぬ思案」
諺に「頭の濡れぬ思案」という。降ってもいな雨に備えるよりも、今降っている雨を避ける思案をすべきである。思案というものは得てして「頭の濡れぬ思案」である。ほとんど役に立たない。
(†心のデボーション03126)
† 心のデボーション 03127
「言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。」 Ⅱコリン12:9 大正文語訳聖書
「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」 口語訳聖書
「弱さを誇る」
我を張って生きている人には、神の恵みが働きにくくなる。神の恵みは人の「強さ」にではなく、「弱さ」に働くからである。人の「弱さ」に神が働くとき、「弱さ」は神の力の現われである。自分の「弱さ」の中に神の恵みを見る人は、実は「弱さ」こそが、力の本質であることを知る。自分の弱さを知る人こそ強い。彼はパウロと共に、「誇るなら、自分の弱さを誇る」と告白する。
(†心のデボーション03127)
† 心のデボーション 03128
「神むかしは預言者等により、多くに分ち、多くの方法をもて先祖たちに語り給ひしが、」 ヘブル1:1 大正文語訳聖書
「神は昔預言者等を以て、幾度にも幾様にも先祖等に語り給ひしに、」 口語訳聖書
「列祖」
神は預言者たちを通して、「幾度にも幾様にも先祖等に」語られた。(ヘブル1:1) 「先祖 πατήρ (父、祖父)」を明治元訳聖書は「列祖」と訳して「せんぞたち」と読ませる。「列祖」は「代々(歴代)の先祖」をあらわす。神は代々のそれぞれの先人たちに語り給うた。(ヘブル1:1)
(†心のデボーション03128)
† 心のデボーション 03129
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」 口語訳聖書
「愛するものを失った心」
愛するものを失った心の整理ができないと、離別の際に残された感情がいつまでも心に残る。心の整理には「愛する人を失った自分」というものを見つめるしかない。その慰めは苦い。
(†心のデボーション03129)
† 心のデボーション 03130
「神および主イエス・キリストの僕ヤコブ、散り居る十二の族の平安を祈る。」 ヤコブ1:1 大正文語訳聖書
「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。」 口語訳聖書
「やすきを問う」
ヤコブは離散のユダヤ12部族の人々に「挨拶を送る χαίρω」(口語訳聖書) 「χαίρω」は「喜ぶ」の意である。明治元訳聖書は「安を問」とし「やすきを問ふ」と訳す。「挨拶を送る」は、やすきのうちに喜びを問うことである。(ヤコブ1:1)
(†心のデボーション03130)
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