心のデボーション312

デボーション1
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† 心のデボーション 03111

「其右の手には長壽あり その左の手には富と尊貴とあり」 箴言3:16  明治元訳聖書

「その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。」 口語訳聖書

 「知恵と長寿」

「主を畏れることは、心を喜ばせ、楽しみと喜びと長寿をもたらす。〔主を畏れることは主の恵みである。これ

は人を愛の道に導く。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:12 フランシスコ会訳聖書) 神への畏れは心を喜ばせ、楽しみの冠であるばかりでなく、長寿をもたらす。長寿とは単に長生きするというよりも、神の与えられるいのちを全うする(完了する)ことに他ならない。それは神の恵みであり、人を「愛」に導く。人のいのちは愛に生かされるいのちである。人は愛を知ってはじめて孤独を知る。愛のない孤独に人は耐え得ようか。

(†心のデボーション03111)

† 心のデボーション 03112

「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。」 Ⅰコリント13:12  大正文語訳聖書

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」 口語訳聖書

 「愛の深み」

ある人は「あなたはサタンの深いところを知らない」という。(黙示2:24)「サタンの深いところ」とは「悪の深み」という意味だろうか。このことばは私たちをⅠコリント2:10の「神の深み」に導く。人は「聖なる深み」を知ることができないように、「悪の深み」も知ることはできない。知ることが許されているのは「愛の深み」である。

(†心のデボーション03112)

† 心のデボーション 03113

「神の御意によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ、書をエペソに居る聖徒、キリストに在りて忠實なる者に贈る。」 エペソ1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。」 口語訳聖書

 「使徒と為るパウロ」

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから」は明治元訳聖書では「神の旨に由てイエス・キリストの使徒と爲るパウロ」として、パウロが「神のみ旨に由てイエス・キリストの使徒(ἀπόστολος)」とされたことを言い添える。パウロは使徒と、「生った(自然になった)」のではなく、「成った(成りあがった)」のでもなく、「為った(神のみ旨がなされた)」のである。’エペソ1:1)

(†心のデボーション03113)

† 心のデボーション 03114

「キリスト・イエスの僕たる我ら、パウロとテモテと、書をピリピにをるキリスト・イエスに在る凡ての聖徒、および監督たちと執事たちとに贈る。」 ピリピ1:1  大正文語訳聖書

「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」 口語訳聖書

 「監督と執事」

パウロとテモテはピリピの「すべての聖徒たち」と「すべての監督たちと執事たち」に手紙を送る。「監督と執事」を永井直治訳聖書は「見守人等と事へ人」と訳す。「監督 ἐπίσκοπος」は「見守る者」であり、「執事 διάκονος」は「仕える者」の意である。彼らは教会を見守り、仕えた。(ピリピ1:1)

(†心のデボーション03114)

† 心のデボーション 03115

「我の觀る所によれば不義を耕へし惡を播く者はその穫る所も亦是のごとし」 ヨブ4:8  明治元訳聖書

「わたしの見た所によれば、不義を耕し、/害悪をまく者は、それを刈り取っている。」 口語訳聖書

 「おやじ馬」

やっとたどり着いた宿、その夜近くで火事があり、私はカメラで、夜空に舞い上がる炎を撮影していた。やじ馬とは「おやじ馬」の略で、自分に関係のないことを人の後についてわけもなく騒ぎ立てる、馴らしにくい馬のことという説がある。ヨブの友はヨブが「不幸を耕して」いると責めるが、むしろ不幸をかきまわしているのはヨブの友人かもしれない。誰の心にも「馴らしにくいおやじ馬」の一頭や二頭がかわれているようだ。

(†心のデボーション03115)

† 心のデボーション 03116

「神の義はその福音のうちに顯れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。」 ロマ1:17  大正文語訳聖書

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」 口語訳聖書

 「信仰に始まり信仰に至らせる」

「Fides facit fidem. 信頼は信頼を生む」(ラテン語格言) ラテン語Fidesには「信頼、信仰、真実、誠実、約束」等を意味し、それぞれは同じところからしか生まれない。信仰は信仰からうまれ、不信仰から信仰は生まれないということでもあろう。神の義は「信仰に始まり信仰に至らせるἐκ πίστεως εἰς πίστιν」。(ロマ1:17 

(†心のデボーション03116)

† 心のデボーション 03117

「世は己の智慧をもて神を知らず(これ神の智慧に適へるなり)この故に神は宣教の愚をもて、信ずる者を救ふを善しとし給へり。」 Ⅰコリント1:21  大正文語訳聖書

「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」 口語訳聖書

 「ことばの愚かさ」

パウロは「神は、宣教のことばの愚かさ(διὰ τῆς μωρίας τοῦ κηρύγματος)を通して、信じる者を救おうと定められた」と語る。宣教の内容はイエス・キリストの十字架と復活を愚か(μωρία)までに伝える宣教者によって救われるのである。私のときも、私の心を砕いたの「宣教の愚かさ」であった。宣教者とは自らすすんで「おろかになる人」のことである。

(†心のデボーション03117)

† 心のデボーション 03118

「神の御心によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ及び兄弟テモテ、」 コロサイ1:1

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、」 口語訳聖書

 「神の御旨」

パウロは「神の御旨によって(διὰ θελήματος θεοῦ)キリスト・イエスの使徒となった」(コロサイ1:1) 「御旨 θέλημα 」は「思い、熱望、決意、求め」の意である。人が主イエスに導かれるのは、神の「思い、熱望、決意、求め」による。漢字「旨」は「美味い」の意味から「物事のおこる理由」を示すようになった。中国では天子の考えは「聖旨」、命令は「上旨」である。ここから「神の思い、熱望、決意、求め」を「御旨」としたものであろう。

(†心のデボーション03118)

† 心のデボーション 03119

「なんぢ受けんとする苦難を懼るな、視よ、惡魔なんぢらを試みんとて、汝らの中の或者を獄に入れんとす。汝ら十日のあひだ患難を受けん、なんぢ死に至るまで忠實なれ、然らば我なんぢに生命の冠冕を與へん。」 黙示2:10  大正文語訳聖書

「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」 口語訳聖書

 「死に至るまで」

「なんぢ死に至るまで忠實なれ γίνου πιστὸς ἄχρι θανάτου」。「死にいたるまで ἄρτι θανάτου」、ἄρτι は「ちょうど今」の意で、「今まさに死なんとするその瞬間まで忠実であれ」と語られているのである。

(†心のデボーション03119)

† 心のデボーション 03120

「パウロ、シルワノ、テモテ、書を父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教會に贈る。願はくは恩惠と平安と汝らに在らんことを。」 Ⅰテサロニケ1:1 大正文語訳聖書

「パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」 口語訳聖書

 「平安」

パウロは教会に「恵みと平安」を祈る。「平安 εἰρήνη 」は「平和」の意で「神との平和、霊的平安」をあらわす。明治元訳聖書は「平康 やすき」と訳す。「平康」は「豊かで盛ん」を意味する。神との霊的平和の豊かさを示す。(Ⅰテサロニケ1:1)

(†心のデボーション03120)

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