† 心のデボーション 03101
「――この生命すでに顯れ、われら之を見て證をなし、その曾て父と偕に在して、今われらに顯れ給へる永遠の生命を汝らに告ぐ――」 Ⅰヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――」 口語訳聖書
「永遠のいのち」
「永遠のいのち」はすでに「現れ φανερόω」、「今やわたしたちに現れた φανερόω」。(Ⅰヨハネ1:2 口語訳聖書) 「φανερόω」は「明らかにする」の意味である。「永遠のいのち」は、未来の世界にではなく現在の時の中に現れて(明らかにされて)いる。
(†心のデボーション03101)
† 心のデボーション 03102
「時すでに晩くなりたれば、弟子たち御許に來りていふ『ここは寂しき處、はや時も晩し。』」 マルコ6:35 大正文語訳聖書
「ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。」 口語訳聖書
「寂しい所」
孤独から逃げようとすると、孤独に追いかけられる。孤独を引きよせてみなければ、人のぬくもりを慕うことができない。孤独になってみなければ、自分自身を知ることもできない。イエスは奉仕から帰った弟子たちを、強いて寂しい所に退けられる。それは、弟子たちが孤独の中で、神と人との出会いと奉仕を確かなものにするためだったのではないだろうか。
(†心のデボーション03102)
† 心のデボーション 03103
「テオピロよ、我さきに前の書をつくりて、凡そイエスの行ひはじめ教へはじめ給ひしより、」 使徒1:1 大正文語訳聖書
「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、」 口語訳聖書
「主の言葉と業」
ルカは先に著わした「第一巻」に続き、本書をテオピロ(「テオピロ閣下」と呼ばれる使徒パウロの教えから信者になった。ルカ1:2 テオピロ Θεόφιλοςは「神の愛する者」の意)に送る。神の言葉はすべての人に宛てられた神の言葉であり、同時に実在する一個人に宛てられて書かれた神の書である。われわれはイエス・キリストの言葉と業をことごとく知るとともに、神の言葉と業がその後の世界と歴史に働き続け、世の終りまでに及ぶ、神と人間のことごとくを調べ記憶し生きることが信仰である。(使徒1:1)
(†心のデボーション03103)
† 心のデボーション 03104
「汝等もその中にありて、イエス・キリストの有とならん爲に召されたるなり。」 ロマ1:6 大正文語訳聖書
「あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである」 口語訳聖書
「彼らの中にあって」
すべてのキリスト者は「彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者 ἐν οἷς ἐστε καὶ ὑμεῖς κλητοὶ ἰησοῦ χριστοῦ」である。ローマ人は「ローマの中にあって」召されてイエス・キリストに属する者となった。日本人キリスト者は「日本にあって(~の中で)、召されてイエス・キリストに属する者」である。ここにおいて、日本人であることは福音の妨げにならず、むしろ、日本人として神に召され、イエス・キリストの肢体なる教会に属することの真意に至るのである。
(†心のデボーション03104)
† 心のデボーション 03105
「水に照せば面と面と相肖るがごとく 人の心は人の心に似たり」 箴言27:19 明治元訳聖書
「水にうつせば顔と顔とが応じるように、人の心はその人をうつす。」 口語訳聖書
「知らない人」
子どもを守るために「知らない人と話してはだめ」と教える人もいる。しかし、知った人とうまくやれるだけでは、子どもは成長しない。知らない人を知っていく過程で、子どもは自分というものをより深く経験する。知らない人を愛することができて、大人に成長るといってもよい。まず親子が「知らない人」同士としての心理的な出会いを経験し、それを人格に反映することが大切ではないだろうか。
(†心のデボーション03105)
† 心のデボーション 03106
「神の御意によりてイエス・キリストの使徒となれるパウロ及び兄弟テモテ、書をコリントに在る神の教會、ならびにアカヤ全國に在る凡ての聖徒に贈る。」 Ⅱコリント1:1 大正文語訳聖書
「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。」 口語訳聖書
「遍く」
パウロは、「アカヤ全土にいるすべての聖徒たち τοῖς οὗσιν ἐν ὅλῃ τῇ ἀχαΐᾳ」に挨拶を送る。「アカヤ全土」を明治元訳聖書は「徧くアカヤにある凡の聖徒」と訳す。「遍く(あまねく)ἐν ὅλῃ」は「ゆきわたって隅々まで及ぶ」の意である。福音はアカヤ全土の隅々にまでゆきわたった。福音は個人の内の隅々にまでゆきわたって、聖徒となし、聖徒は地の隅々にまで福音となる。(Ⅱコリント1:1)
(†心のデボーション03106)
† 心のデボーション 03107
「イエス怒を含て環視し彼等が心の頑硬なるを憂へ手枯たる人に爾の手を伸よと曰ければ彼その手を伸ししに即ち他の手のごとく愈たり」 マルコ3:5 大正文語訳聖書
「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。」 口語訳聖書
「心のウオノメ」
タコとかウオノメは足や指にだけできるものではないかもしれない。心にもできる。心にタコやウオノメのできた人を「かたくなな人 τῇ πωρώσει τῆς καρδίας」と呼ぶのではないか。その部分が石のようにかたくなり、うれしいとか、寂しいという感覚が失われてしまうのである。真面目な人の心にできるタコは根が深く、除くのが大変である。本当の正しさはかたくなではなく、やわらかいのである。ギリシャ語「かたくな πώρωσις」は「鈍い心」の意である。明治元訳聖書は「頑硬」として「かたくな」と読ませ、「おろかなまでのかくな」をあらわす。(マルコ3:5)
(†心のデボーション03107)
† 心のデボーション 03108
「なんぢら互に重を負へ、而してキリストの律法を全うせよ。」 ガラテヤ6:2 大正文語訳聖書
「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」 口語訳聖書
「互に重荷を負い合いなさい」
「互に重荷を負い合いなさい。ἀλλήλων τὰ βάρη βαστάζετε」。「重荷を負い合う βαστάζω」は「抱える、担ぐ、背負う、運び去る」の意味である。キリスト者は主イエスがそうしてくださったように(マタイ11:28~30)、互いの「重荷」を互いに抱え、担ぎ、背負って運び去るのである。(ガラテヤ6:2)
(†心のデボーション03108)
† 心のデボーション 03109
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 マタイ5:4 明治元訳聖 書
「慰め」
「慰め παρακαλέω 」は英語 comfort である。Comfort の語源はラテン語 com(強意 + fort=strong (力)で「力づける」の意味である。「慰め」は生きる力を湧出させること。英語で「誠意のない慰め」を Cold comfort という。「冷たい慰め」である。慰めは「力づけられる」こと。「冷たい慰め」は残された力すら奪ってしまう。(マタイ5:4)
(†心のデボーション03109)
† 心のデボーション 03110
「人よりに非ず又人に由ずイエス・キリストと彼を死より甦らしし父なる神に由て立られたる使徒パウロ」 ガラテヤ1:1 大正文語訳聖書
「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、」 口語訳聖書
「神から、神によって」
信仰は「人々からでもなく、人によってでもなくοὐκ ἀπ᾽ ἀνθρώπων οὐδὲ δι᾽ ἀνθρώπου」、「イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神διὰ ἰησοῦ χριστοῦ καὶ θεοῦ πατρὸς τοῦ ἐγείραντος αὐτὸν ἐκ νεκρῶν,
」から来る。信仰は、特定の誰から(ἀπό)、特定の誰を通して(διά)来たとしても、すべて、神御自身から(ἀπό)、神御自身を通して(διά)来たのである。(ガラテヤ1:1)
(†心のデボーション03110)
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