心のデボーション310

デボーション1
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† 心のデボーション 03091

「汝がホレブにおいて汝の神ヱホバの前に立る日にヱホバわれに言たまひけらく我ために民を集めよ我これに吾言を聽しめ之をしてその世に存らふる日の間我を畏るることを學ばせまたその子女を敎ふることを爲しめんとすと」 申命記4:10  明治元訳聖書

「あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、『民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう』。」 口語訳聖書

 「楽しみと喜び」

「主を畏れることは、栄光と誇りであり、楽しみと喜びの冠である。」(旧約聖書外典ベン=シラの知シラ書1:11 フランシスコ会訳聖書) 神を畏れることは人に楽しみと喜びをもたらす。それは人のいのちの源泉であって尽きることはない。神は「創造の神」であり、「神への畏れ」は「創造の神への応答」である。いのちへの「楽しみと喜び」はそこにはじまり、死の恐怖を「栄光」に変える。

(†心のデボーション03091)

† 心のデボーション 03092

「わがたましひ痛めるによりてとけゆく ねがはくは聖言にしたがひて我にちからを予へたまへ」 詩篇119:28 明治元訳聖書

「わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。」 口語訳聖書

 「悲しいうそ」

手品師はいつも見物人の注意をある方向に向けようと仕向ける。手品のタネは、たいてい、それとは反対側に隠されているからである。うそを見破るには、ことばの反対側を探ればよいことになる。しかし、うそに気づいても、なぜ、真実が反対側に隠されているのかを充分に考えるまでは、それをあばかないのも必要である。タネがわかっても、黙っていたい悲しいうそもある。たましいの流す涙がかわくまで。

(†心のデボーション03092)

† 心のデボーション 03093

「汝らは固より凡ての事を知れど、我さらに汝等をして思ひ出さしめんとする事あり、即ち主エジプトの地より民を救ひ出して、後に信ぜぬ者を亡し給へり。」 ユダ1:5  大正文語訳聖書

「あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。」 口語訳聖書

 「恵みにとどまる」

救い出された後に不信仰に堕ちる者もいる。「救い」が不十分だからではなく、他の福音に心を移したのである。「主は民を一度エジプトの地から救い出し ὅτι [ὁ] κύριος ἅπαξ λαὸν ἐκ γῆς αἰγύπτου σώσας」の「一度 ἅπαξ」は「一度限り、最終的に」の意である。恵みにとどまることが最善の恵みである。(ユダ1:5)

(†心のデボーション03093)

† 心のデボーション 03094

「ヨハネ書をアジヤに在る七つの教會に贈る。願はくは今在し、昔在し、後來りたまふ者、および其の御座の前にある七つの靈、」 黙示1:4  大正文語訳聖書

「ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から」 口語訳聖書

 「キリストの教会」

「アジアにある7つの教会」は「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ」(黙示1:11)である。「7つの教会」に対し「7つの霊」が主のみ座の前にいた。「7  ἑπτά」は完全数であり、「7つの教会」は全体としての教会を現わす。教会は地域に立つと共に、全体としてのキリストの肢体である。(コロサイ1:24; 2:19)

(†心のデボーション03094)

† 心のデボーション 03095

「されど我なんぢらが之を知らんことを願ふ。凡ての男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり。」 Ⅰコリント11:3  大正文語訳聖書

「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」 口語訳聖書

 「ご飯食べました?」

フィリッピンのタガログ語で挨拶は、朝の「Magandang umaga. 美しい朝ですね」ではじまり、「Kumain ka na? ご飯食べた?」が挨拶がわりに使われる。空腹ではないかと相手を気づかうのが、路上で出会ったときの普通の挨拶なのである。初代教会には信徒が一緒に食事をとる習慣がった。しかし、裕福な人が先に来て食べてしまい、遅く来た貧しい人にはわずかのものしか残されていないという問題が発生し、戒められている。天国には一つの皿しかなく、それでいて、最後の一人に丁度よい量が残されるに違いない。

(†心のデボーション03095)

† 心のデボーション 03096

「愚なる婦は嘩しく且つたなくして何事をも知らず」 箴言9:13  明治元訳聖書

「愚かな女は、騒がしく、みだらで、恥を知らない。」 口語訳聖書

 「上っ調子」

「上っ調子」ということばは、邦楽で合奏するときに基本になる音に対してそれより高い調子を出すことをいう。軽くて落ち着かないという。転じて、調子よく合わせるようで微妙にわかっていない落ち着きのない人のことをいうようになった。心がそこにないのである。「上っ調子」は「愚かな女」に限らない、調子はずれの「愚かな男」は、それに気づかない分、始末に悪い。

(†心のデボーション03096)

† 心のデボーション 03097

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書

「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり」 明治元訳聖書

 「哀」

「哀」は「口」+「衣」で口を衣で隠してむせぶこと、せつない思いである。「哀」は「愛」であり、「愛 いとおしむ」でその人を深く思うこと。「悲しみ」を表現にはいくつかある。「戚 せき」は憂いて悲しむこと、「哀」「悲」はあわれみ同情すること、「悼」は死者への沈痛の悲しみである。人はさまざまに悲しむ。だが、悲しむことのできる人は幸いである。慰めの懐に抱かれるからだ。(マタイ5:4)

(†心のデボーション03097)

† 心のデボーション 03098

「神の子イエス、キリストの福音の始」 マルコ1:1 大正文語訳聖書

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 口語訳聖書

 「福音の初め」

創世記は「天と地」の「初めに( ἐν ἀρχῇ)」をもって神に創られた人間を語り(創世記1:1)、マルコはイエス・キリストの「福音」を、もって「人間の救いの初め(᾽Αρχὴ τοῦ εὐαγγελίου)」を語る。(マルコ1:1)

人間の存在の初めに神がおられ、真の人間のはじめに神がおられる。

(†心のデボーション03098)

† 心のデボーション 03099

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書

「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書

 「不幸な人」

事故で全身の機能を失った人が、残されたわずかの機能を生かして美しいものを創る。事故に遭わなかったら、その才能は眠ったままだったかもしれない。あきらめないで、自分に残された機能に工夫を重ねていくうちに、隠れた才能が働き始めたのだと思う。身体の機能を失うのが不幸でないはずはない。しかし、何一つ失っていないのに、それを生かす幸せも慰めも感じられないのは、もっと不幸だ。

(†心のデボーション03099)

† 心のデボーション 03100

「我らの中に成りし事の物語につき、始よりの目撃者にして、」 ルカ1:1  大正文語訳聖書

「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、」 口語訳聖書

 「我らの中に成りし事」

ルカは「わたしたちの間に成就された出来事 τῶν πεπληροφορημένων ἐν ἡμῖν πραγμάτων」を子細漏らさず正確に跡づけて語ろうと計画する。(ルカ1:1~4) 「成就する πληροφορέω」は「満たす、完結する」の意である。「わたしの中に完結した福音」について、子細漏らさず正確に知ることは新たな祝福をもたらす。(ルカ1:1)

(†心のデボーション03100)

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