心のデボーション309

デボーション1
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† 心のデボーション 03081

「夫人はその日の下に勞して爲ところの諸の動作とその心勞によりて何の得ところ有るや」 伝道2:22  明治元訳聖書

「そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。」 口語訳聖書

 「うるさい」

「うるさい」は「うる(心)+さし(狭い)」から来たことばで、元々の意味は「いやになるほど隙のない相手」で、それほど「行きとどいた心」のことを言った。それが転じて「しつこくてやりきれない」になった。(「広辞苑」より) 「行きとどいた心使い」がどこから「しつこくてやりきれない」になるのだろうか。

(†心のデボーション03081)

† 心のデボーション 03082

「われはヱホバなり 我のほかに神なし 一人もなし 汝われをしらずといへども我なんぢを固うせん」 イザヤ45:5  明治元訳聖書

「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」 口語訳聖書

 「水入り」

相撲で勝負が長引くと、行事が分け入って、しばらく休ませる。この時、力士に力水をつけさせることから「水入り」という。結論の出ない場面では、双方が力を抜いて水入りにする。一時、土俵から下りる。水入りで大切なのは「力水」の存在であろう。それによって力を帯びることができなければ勝負は見えている。人生は、終わることのない一つの「水入り相撲」なのかもしれない。イザヤ45:5「わたしはあなたを強くする」(口語訳聖書)は、新改訳聖書では「わたしはあなたに力を帯びさせる」である。

(†心のデボーション03082)

† 心のデボーション 03083

「すべてわが名をもて稱へらるる者をきたらせよ 我かれらをわが榮光のために創造せり われ曩にこれを造りかつ成をはれり」 イザヤ43:7  明治元訳聖書

「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」 口語訳聖書

 「主の栄光のために」

「主はその賜物に応じて、すべての人に知恵を与え、主を愛する者に、これを惜しみなくお与えになった。[主への愛は栄光に満ちた知恵。主を畏れる者には、その分け前が与えられる。]」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:10 フランシスコ会訳聖書)

神は人をそれぞれの存在として創造され、各自に相応しい知恵を惜しみなく与えられる。人は才能も能力も同じではない。しかし、それは優劣ではなく個に応じて与えられた個性というべきである。神は一人一人を他とは異なる存在として創られたのである。神の知恵に生きる人は、他の者の自分とは別の賜物を認めて喜ぶ。その交わりは神の創られた知恵に支えられて不変である。

(†心のデボーション03083)

† 心のデボーション 03084

「汝らは終のときに顯れんとて備りたる救を得んために、信仰によりて神の力に護らるるなり。」 Ⅰペテロ1:5  大正文語訳聖書

「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」 口語訳聖書

 「御力の守り」

「救いが完成」される日のために、神は御力をもって信仰を「守って φρουρέω」下さる。φρουρέωは軍隊用語で「見張りする、守護する」の意味である。(Ⅰペテロ1:5)神は天の軍勢をもって信仰をあらゆる攻撃から守られる。詩篇121:1~3

(†心のデボーション03084)

† 心のデボーション 03085

「かくて彼らヒゼキヤ王の處に入て言ふ我らヱホバの室をことごとく潔めまた燔祭の壇とその一切の器具および供前のパンの案とその一切の器皿とを潔めたり」 Ⅰ歴代29:18  明治元訳聖書

「そこで彼らはヒゼキヤ王の所へ行って言った、「われわれは主の宮をことごとく清め、また燔祭の壇とそのすべての器物、および供えのパンの机とそのすべての器物とを清めました。」 口語訳聖書

 「ロクでもない」

「ロクでもない」のロクは「陸」のことで、平らにすることだそうである。何ごとも平らな人を「まとも」という。デコボコした気持ちでは「ロクなこと」がない。しかし、時には平らを失って、まっとうでない気持ちから動いてみたい気もする。そこから新しい平らが現われてくるかもしれない。それには、心を「しっかり神に向ける」ことである。

(†心のデボーション03085)

† 心のデボーション 03086

「この故に勵み勉めて汝らの信仰に徳を加へ、徳に知識を、」 Ⅱペテロ1:5  大正文語訳聖書

「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、」 口語訳聖書

 「信仰の徳」

御言葉は「力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加えよ」と勧める。信仰の深さは徳の深さによって計られる。「徳 ἀρετη」は「卓越した力、長所」の意味である。それは「知識と忍耐と経験と兄弟愛と愛」か加えられた「信仰の徳(卓越した力、長所)」である。(Ⅱペテロ1:5~7)

(†心のデボーション03086)

† 心のデボーション 03087

「其處よりして攫むべき物をうかがふ その目のおよぶところ遠し」 ヨブ39:29  明治元訳聖書

「そこから獲物をうかがう。その目の及ぶところは遠い。」 口語訳聖書

 「山あて」

漁師はいち早く目標の漁場に着くために「山あて」ということができないとだめなのだそうである。海から遠くの山を見て、自分の位置をたしかめながらポイントに急ぐ。魚がたくさんとれたら、「山あて」をして、その場所を記憶し、翌日、同じ場所に行って再び網を下ろす。「あて」のできる人なら、あてにしてもいい。いくつもの「あて」をもっている人が頼りになる。

(†心のデボーション03087)

† 心のデボーション 03088

「此等のことを書き贈るは、我らの喜悦の滿ちん爲なり。」 Ⅰヨハネ1:4 大正文語訳聖書

「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」 口語訳聖書

 「交わりを喜ぶ」

ヨハネにとって、「父なる神、及び御子イエス・キリストとの交わり」を互いに持つことは「満ち溢れる喜び」であった。(Ⅰヨハネ1:4) 「わたしたちの喜びが満ちあふれる ἡ χαρὰ ἡμῶν ᾖ πεπληρωμένη」。「満ち溢れるπληρόω」 は「充満する、成就する、実現する」の意味である。「父なる神、及び御子イエス・キリストとの交わり」が互いの内に充満し、実現していく喜びである。

(†心のデボーション03088)

† 心のデボーション 03089

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書

「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 マタイ5:4 明治元訳聖書

 「聲をたてずして哀け」

モンテーニュによれば、エジプト王プサムメニトゥスは戦いに負け、自分の娘が下女の装いで水汲みをさせられているのを見て友人が悲しんでも一声も洩らさなかった。彼の息子が死刑の場に連れて行かれたときも同じ態度をくずさなかった。しかし、親しい友人の一人が囚人の間に交じっているのを見て頭を打ち叩いて悲しんだという。わけを聞かれて、「最後の悲しみだけが、どうやら涙の中に表現できたが、前の二つはどんな表現の道もこえていた」と答えたという。(モンテーニュ『エセー』より)表現を超えた悲しみというものがある。

「聲をたてずして哀け」エゼキエル24:17

(†心のデボーション03089)

† 心のデボーション 03090

「ヱホバは磐にましましてその御行爲は完くその道はみな正しまた眞實ある神にましまして惡きところ無し只正くして直くいます」 申命記32:4  明治元訳聖書

「主は岩であって、そのみわざは全く、/その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、/義であって、正である。」 口語訳聖書

 「胡乱」

怪しい者が近ずくと、「胡乱なやつ」と警戒する。「胡乱」の「胡」は「えびす」のことで中国に「胡(えびす)」が侵攻してきたことに驚き、慌てふためいたことから、不審者を「胡乱」と呼ぶようになったという。自分が相手にとって、何時の間に「胡散臭い人」になっていなか気になると時もある。

(†心のデボーション03090)

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