† 心のデボーション 03021
「されば我らは、汝らが忍べる凡ての迫害と患難との中にありて保ちたる忍耐と信仰とを、神の諸教會の間に誇る。」 Ⅱテサロニケ1:4 大正文語訳聖書
「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。」 口語訳聖書
「自慢の友」
テサロニケ教会は「迫害と患難とのただ中で」、「忍耐と信仰」を見せた。パウロはそれゆえにテサロニケ教会と信徒を「誇り ἐγκαυχάομαι」とした。「ἐγκαυχάομαι」は「自慢する、誇る」である。自慢できる信仰の友は魂の宝である。(Ⅱテサロニケ1:4)
(†心のデボーション03021)
† 心のデボーション 03022
「それヱホバはその愛する者をいましめたまふ あたかも父のその愛する子を譴むるが如し」 箴言3:12 明治元訳聖書
「主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。」 口語訳聖書
「叱られて」
子どもの頃をふり返って、なつかしく思い出すのは親に叱られたことである。本気で愛していないと「叱る」ことはできない。親が子どもを叱らなくなったのは心から愛することができなくなったからではないだろうか。反抗する子どもは、もっと本気になって親に「叱ってほしい」と思っているのである。自分を振り向いてほしいのである。主に叱られる時「神の本気」が感じられるだろうか。
(†心のデボーション03022)
† 心のデボーション 03023
「然るにパロは嘘氣時あるを見てその心を頑固にして彼等に聽ことをせざりきヱホバの言たまひし如し 」 出エジプト8:15 明治元訳聖書
「ところがパロは息つくひまのできたのを見て、主が言われたように、その心をかたくなにして彼らの言うことを聞かなかった。」 口語訳聖書
「強情」
パロは追いつめられると謙遜になるが、少し「息つく暇」ができると強情になり、心をかたくなにする。「強情」は直訳で「重い心」となる。「重い心」の反対は「砕かれた、悔いた心」である。息つく暇のできたときにも、たましいを砕いて柔らかくできるなら本物である。「かたくなな心」は長い間、放置すると、その人の人格として重く固まる。「主はパロの心をかたくなにされた」とは、そういう意味ではないだろうか?
(†心のデボーション03023)
† 心のデボーション 03024
「これ神の正しき審判の兆にして、汝らが神の國に相應しき者とならん爲なり。今その御國のために苦難を受く。」 Ⅱテサロニケ1:5 大正文語訳聖書
「これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。」 口語訳聖書
「神の国」
苦難の中でテサロニケ教会が示す「信仰と忍耐」は、彼らが「神の国にふさわしい者」であることを証した。彼らの「信仰と忍耐 τῆς ὑπομονῆς ὑμῶν καὶ πίστεως」(Ⅱテサロニケ1:4)は「神の国のため τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ」になされるもので、それ以外の「信仰と忍耐」は空しい。
(†心のデボーション03024)
† 心のデボーション 03025
「ヱホバはわが力わが盾なり わがこころこれに依賴みたれば我たすけをえたり 然るゆゑにわが心いたくよろこぶ われ歌をもてほめまつらん」 詩篇28:7 明治元訳聖書
「主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。」 口語訳聖書
「賛美」
肯定するしかない苦しみもある。そのときは苦しみに逆らわず、ただ「歌をもって」主を賛美したい。苦しみはいじらずに、賛美をもって生活を整える。賛美は主へのささげものである。心は乱れて、物いうこともできない苦難の日に「歌を思いおこせ」と詩篇は語る。(詩篇77:)賛美は「自分の心と語りう」ことであり、神に「私のたましいを問いかける」ことである。
(†心のデボーション03025)
† 心のデボーション 03026
「我マケドニヤに往きしとき汝に勸めし如く、汝なほエペソに留まり、ある人々に命じて、異なる教を傳ふることなく、」 Ⅰテモテ1:3 大正文語訳聖書
「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、」 口語訳聖書
「厳しい訓戒」
パウロはマケドニヤに行くにあたって、テモテをエペソに留め、その間になすべきことを詳しく伝える。(Ⅰテモテ1:3~4) 「頼んでおいたように παραγγέλλω」は「厳しく命じる」の意味である。師と弟子の間では、よく「παραγγέλλω 厳しい訓戒」が成立する。「παραγγέλλω」が敗れるとき、師と弟子の関係も壊れる。(Ⅰテモテ1:3)
(†心のデボーション03026)
† 心のデボーション 03027
「彼はなんぢを六の艱難の中にて救ひたまふ 七の中にても災禍なんぢにのぞまじ」 ヨブ5:19 明治元訳聖書
「彼はあなたを六つの悩みから救い、/七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。」 口語訳聖書
「七つ目の苦しみ」
苦しみは人を真の成熟に導く。神は人に苦しみを与え、「傷つけるがそれを包み、打ち砕くがその手でいやし」てくださる。苦しみの中で人はやさしさを知る。しかし、それでも、苦しみはすべて引き受けるべきものではない。神は「六つの苦しみ」からあなたを救われ、「七つ目の苦しみ」もあなたに触れない。しかし、人は「七つ目の苦しみ」には触れないようい注意すべきである。「七つ目の苦しみ」は、人から生きる力を奪い、やさしさをはぎ取る無益な苦しみである。
(†心のデボーション03027)
† 心のデボーション 03028
「われ夜も晝も祈の中に絶えず汝を思ひて、わが先祖に效ひ清き良心をもて事ふる神に感謝す。」 Ⅱテモテ1:3 大正文語訳聖書
「わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。」 口語訳聖書
「きよめられた良心」
パウロは祈りの中で「きよい良心 ἐν καθαρᾷ συνειδήσει」をもって神に感謝する。(Ⅱテモテ1:3 口語訳聖書)「良心 συνείδησις」も「きよめられる καθαρός」必要がある。「καθαρός」は「汚れていない。まじりけのない、本当の」の意味である。「汚れた良心」から出た祈りは偽善である。
(†心のデボーション03028)
† 心のデボーション 03029
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「望みを神につなぐ」
「貧しい者」とは、見に一物ももたず、乞うしかない人のことである。しかし、彼はその貧しさをむき出しにはしない。何ももたないが故に、望みを神につなぎ、神に乞う人である。誰よりも身を低くするが、その心はあきれるほどのびやかである。彼は神の応えを知っている。彼にとっては身に起こることが、そのままそっくり神からのものである。彼は「ありがとう」と貧しさを受ける。
(†心のデボーション03029)
† 心のデボーション 03030
「時いたりて御言を宣教にて顯さんとし、その宣教を我らの救主たる神の命令をもて我に委ねたまへり。」 テトス1:3 大正文語訳聖書
「神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである」 口語訳聖書
「宣教」
「宣教 κήρυγμα」とは「神の御言 τὸν λόγον αὐτοῦ」を「明らかにする φανερόω」ことである。(テトス1:3)
「φανερόω」は「現わす、知らす」の意味である。「宣教 κήρυγμα」は「自分に現わされた神の御言葉」を明らかにすることである。
(†心のデボーション03030)
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