† 心のデボーション 03011
「ヱホバよ願くはなんぢの律法のみちを我にをしへたまへ われ終にいたるまで之をまもらん」 詩篇119:33 明治元訳聖書
「主よ、あなたの定めの道をわたしに教えてください。わたしは終りまでこれを守ります。」 口語訳聖書
「知恵の歩み」
「〔知恵の泉は、いと高き所におられる神の言葉、知恵の歩みは永遠の掟である。〕」(シラ書1:5 フランシスコ会訳聖書 本節は底本には削除されている。Latin Vulgateによって挿入) 知恵とは「いと高き所におられる神の御言葉」である。泉のように常に新鮮に湧きあがり、渇きを癒す。神の掟はあらゆるいのちの源である。「知恵の歩み」とは神の道に歩むことに他ならない。
(†心のデボーション03011)
† 心のデボーション 03012
「地とそれに充るもの世界とその中にすむものとは皆ヱホバのものなり」 詩篇24:1 明治元訳聖書
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」 口語訳聖書
「神のみぞ知る」
人生には帳尻が合わないことがよく起こる。そこで、収支が合わなくなったら「神のみぞ知る」と記入する奥の手もある。未知な部分が残されているからこそ、人生をおろそかに生きるわけにはいかない。ダビデが「私の口には、いつも、主への賛美がある」と歌ったのは、よだれを流して病気を装い、敵の目を欺きながら逃走していく最中のことであった。人生の帳尻が合わなくても、神を賛美することはできる。
(†心のデボーション03012)
† 心のデボーション 03013
「我は汝らが斯くも速かにキリストの恩惠をもて召し給ひし者より離れて、異なる福音に移りゆくを怪しむ。」 ガラテヤ1:6 大正文語訳聖書
「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。」 口語訳聖書
「異なる福音」
ガラテヤの教会では早くも「異なる福音 ἕτερον εὐαγγέλιον」が広まった。「異なる ἕτερος へテロス」は「二つのうちの一方」である。「異なるものの混ざった福音」というものはなく、「全く異なる福音」を意味する。日本は世界のあらゆる「異なる福音」が活動する国である。「異なる福音」を見分ける力が必要である。
(†心のデボーション03013)
† 心のデボーション 03014
「御前にて潔く瑕なからしめん爲に、世の創の前より我等をキリストの中に選び、」 エペソ1:4 大正文語訳聖書
「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、」 口語訳聖書
「神の御心」
神の御心は「天地の造られる前から、キリストにあって」定められている。これが「何故わたしは神を信じるのか」という問いへの答えである。「きよく傷のない者となる」ことは、人の願いや力によらず、神の御心にしたがうのである。
(†心のデボーション03014)
† 心のデボーション 03015
「茲に人あり只獨にして伴侶もなく子もなく兄弟もなし 然るにその勞苦は都て窮なくの目は富に飽ことなし 彼また言ず嗚呼我は誰がために勞するや何とて我は心を樂ませざるやと 是もまた空にして勞力の苦き者なり」 伝道4:8 明治元訳聖書
「ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。」 口語訳聖書
「孤独な人」
ひとりぼっちで、共に働く仲間もなく、富を分ける子も兄弟もない人もいる。その生活には何の楽しみもなく、苦労には終わりもないように見える。しかし、この人は愚痴の一つもこぼさない。そのわけは、彼が「富を求めて飽き足りることがない」からであった。彼はそれによって孤独を忘れたのだろうか? それとも、孤独がその生き方を選ばせるのだろうか?
(†心のデボーション03015)
† 心のデボーション 03016
「常に汝ら衆のために、願のつどつど喜びて願をなす。」 ピリピ1:4 大正文語訳聖書
「あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、」 口語訳聖書
「懇願」
「あなたがた一同のために祈るとき πάντοτε ἐν πάσῃ δεήσει μου ὑπὲρ πάντων ὑμῶν」は「あなたがた一同のために祈る度に」(新共同訳聖書)である。パウロは常に知れる限りの人々の為に祈ることを喜びとし、「祈るたびごとに」喜びをもって神に「願い δέησις(懇願、請求、願い求める)」をなした。(ピリピ1:4)
(†心のデボーション03016)
† 心のデボーション 03017
「アブラム乃(すなは)ちヱホバの自己(おのれ)に言たまひし言に從て出たり ロト彼と共に行りアブラムはハランを出たる時七十五歳なりき」 創世記12:4 明治元訳聖書
「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」 口語訳聖書
「出発」
アブラハムは出発した人であった。その地を一巡りしたら、また、出発点に戻ってくるような性質のものでないことをアブラハムは知っていた。信仰は「出発せよ」という神の声を聞けば、ただちに旅立つ。どこに行くのかを問わなくとも、それが祝福に向かっての出発であることを知っているからである。なじんだねぐらから一歩も出ようとしない人は、いつになっても出発することはできない。
(†心のデボーション03017)
† 心のデボーション 03018
「かく聖徒を愛するは、汝らの爲に天に蓄へあるものを望むに因る。この望のことは汝らに及べる福音の眞の言によりて汝らが曾て聞きし所なり」 コロサイ1:5 大正文語訳聖書
「この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。」 口語訳聖書
「信仰の望み」
信仰は望み(ἐλπίς)から始まる。天に蓄えられた望みである。「望み ἐλπίς」は「望み、待望」であり「霊的希望(メシアへの希望)」である。この望みは「福音の真理の言葉」に聞くことにはじまり、完成する、「生ける望 ἐλπίδα ζῶσαν」(ペテロ1:3 )。(コロサイ1:5)
(†心のデボーション03018)
† 心のデボーション 03019
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「生涯の終わり」
自分の生涯の終わりというものを持てる人は幸せだ。その人はどこまで行けるかと考えもしない。今を見ることで満足する。神はこの祝福を「心の貧しい者」に与えられる。
(†心のデボーション03019)
† 心のデボーション 03020
「かくて汝らは大なる患難のうちにも、聖靈による喜悦をもて御言をうけ、我ら及び主に效ふ者となり、」 Ⅰテサロニケ1:6 大正文語訳聖書
「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、」 口語訳聖書
「聖霊による喜びをもって」
キリスト者とは、「多くの患難の中で(ἐν θλίψει πολλῇ)、聖霊による喜び(χαρᾶς πνεύματος ἁγίου)をもって、御言を受け入れる」人々である。「聖霊による喜び」は「知的な喜び」を超越し、「多くの患難」さえも喜ぶ。(Ⅰテサロニケ1:6)
(†心のデボーション03020)
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