† 心のデボーション 03001
「この生命すでに顯れ、われら之を見て證をなし、その曾て父と偕に在して、今われらに顯れ給へる永遠の生命を汝らに告ぐ」 Ⅰヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである」 口語訳聖書
「いのちの現れ」
「永遠のいのち」は「すでに現れ φανερόω」、「今やわたしたちに現れ φανερόω」、ヨハネはそれを「見た ὁράω(目撃した、知った)」。(Ⅰヨハネ1:2 口語訳聖書) 「現れ φανερόω」は「知らせる、知られる」の意味である。ヨハネは自らに「現れ φανερόω(知らせられ)、「見た ὁράω(目撃した、知った)」」ことを告げ知らせる。私に現わされ(知らせられた)、私の見た(理解した)永遠のいのちを生きる。
(†心のデボーション03001)
† 心のデボーション 03002
「我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ」 ガラテヤ1:10 大正文語訳聖書
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」 口語訳聖書
「期待に応える」
人は期待されるとそれに応えようとする。しかし、あまりに期待を意識し過ぎると、どこか現実とかかみ合わなくなる。頑張っているのに心が満たされないのはそのためかもしれない。周囲の期待以上のものに応えようとして、一人で空回りしているのだ。人に喜ばれるには、まず、人を喜ぶことである。人を喜ぶことができてはじめて、人が自分に期待するものが何かがわかる。それが、神があなたに期待していることではないだろうか。
(†心のデボーション03002)
† 心のデボーション 03003
「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。」 ユダ1:3 大正文語訳聖書
「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。」 口語訳聖書
「信仰の戦い」
信仰は「戦い ἐπαγωνίζομαι」である。「ἐπαγωνίζομαι」は「~のために戦う」で、目的が明確な戦いである。信仰は「空を打つような戦い」(Ⅰコリント9:26)をしない。戦はまず、内なるものとの戦いである。(ユダ1:3)
(†心のデボーション03003)
† 心のデボーション 03004
「ヨハネは神の言とイエス・キリストの證とに就きて、その見しところを悉とく證せり。」 黙示1:2 大正文語訳聖書
「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。」 口語訳聖書
「自分が見たすべてのこと」
ヨハネは「神のことば」と「イエスキリストのあかし」について、「自分が見たすべてのことを」証しする。(黙示1:2 口語訳聖書)「神の言葉とイエスキリストのあかし」について、人はつけ加えことも、減らすこともしてはならない。不都合なこともふくめて、「見た(知った)」ことを「見た(知った)」ままに語るべできある。語るべきことは聖霊がその都度明らかかにされる。(ヨハネ16:13)
(†心のデボーション03004)
† 心のデボーション 03005
「ねがはくは我によこしまなる途のありやなしやを見て われを永遠のみちに導きたまへ」 詩篇139:24 明治元訳聖書
「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」 口語訳聖書
「傷のついた道」
傷つきたくないばかりに、できない無理を重ねることがある。それはそれで大切だが、もうこの辺で、傷ついてしまおうというのも一つの方法である。それが一番自分傷つけない方法かもしれない。傷つきたくなくてがんばることで、心は傷つく。「この辺で、傷ついてしまおう」と思った時、あなたはもう「傷ついた道」にはいないはずである。
(†心のデボーション03005)
† 心のデボーション 03006
「潔き靈によれば、死人の復活により大能をもて神の子と定められ給へり、即ち我らの主イエス・キリストなり。」 ロマ1:4 大正文語訳聖書
「聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。」 口語訳聖書
「力の秘密」
新共同訳聖書は本節を「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」と訳す。主イエスの「力」は「死者の中からの復活」に十全に現わされる。力の秘密は主イエスの復活にある。
(†心のデボーション03006)
† 心のデボーション 03007
「汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、その報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は、恩を知らぬもの惡しき者にも、仁慈あるなり。」 ルカ6:35 大正文語訳聖書
「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」 口語訳聖書
「最大の敵」
「自分の敵を愛しなさい」は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ19:19)とのかかわりの中で読む必要がある。人の最大の「敵」は自分である。「内にある嫌な私」を邪険にあつかわず、「彼によくしてやり、返してもらうことを考えずに貸してやる」ことだ。そうすれば、いつの間にか、「嫌な隣人」を愛することもできるようになっている。「あなたがたの受ける報いはすばらしい」。
(†心のデボーション03007)
† 心のデボーション 03008
「汝らはキリストに在りて、諸般のこと即ち凡ての言と凡ての悟とに富みたればなり。」 Ⅰコリント1:5 大正文語訳聖書
「あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、」 口語訳聖書
「キリストの富者」
「すべての言葉にもすべての知識にも ἐν παντὶ λόγῳ καὶ πάσῃ γνώσει」(口語訳聖書)は、新共同訳聖書訳は「あらゆる言葉、あらゆる知識において」である。イエス・キリストに「結ばれる者」は「あらゆる言葉、あらゆる知識において」豊かである。「豊かさ πλουτίζω」は「金持ちにする、富者とな」の意味である。キリストにあって、人は「あらゆる言葉、あらゆる知識の富者」である。(Ⅰコリント1:5)
(†心のデボーション03008)
† 心のデボーション 03009
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「商売上手な呉服屋」
白洲正子さんが商売上手な呉服屋の話をされている。彼によると「色々のものを買ってしまって、あきあきしたような人は難しいようで難しくない。売れ残りのありきたりのものを見せると、とても珍しいものだととびついてくる」という。(白洲正子『日月抄』より) 心の貧しい人にはそのようなことはない。貧しさが必要なものが何かを教えてくれるからだ。
(†心のデボーション03009)
† 心のデボーション 03010
「われらを凡ての患難のうちに慰め、我等をして自ら神に慰めらるる慰安をもて、諸般の患難に居る者を慰むることを得しめ給ふ。」 Ⅱコリント1:4 大正文語訳聖書
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」 口語訳聖書
「傍らに呼ぶ」
「神は、いかなる患難 θλῖψις (苦労、苦しみ)の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり」、その故に、私たちは、「神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるように」されるのである。(Ⅱコリント1:4 口語訳聖書) 「慰める παρακαλέω 」は「傍らに呼ぶ」の意味である。苦難のなかで神の傍らに呼ばれた者は、患難の中にいる人を「自分の傍らに呼ぶ」ことができるようにされる。(Ⅱコリント1:4)
(†心のデボーション03010)
コメント