心のデボーション296

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† 心のデボーション 02951

「神よなんぢりもろもろの思念はわれに寶きこといかばかりぞや そのみおもひの總計はいかに多きかな」 詩篇139:17 明治元訳聖書

「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。」 口語訳聖書

 「み思い」

ベン=シラの知恵は「海の眞砂(まさご)と雨の雫、また永遠(とこしへ)の日數(ひかず)、誰か之を數ふるを得ん(ἐξαριθμέω)。」という。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:2 日本聖公会訳聖書) そして、詩篇は「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。」(詩篇139:17,18 口語訳聖書)と呼応する。神の私への「み思い」は「海の真砂」みにまさる。失望のときには海辺に向かい、数え上げてみよ。

(†心のデボーション02951)

† 心のデボーション 02952

「我等もし其の見ぬところを望まば、忍耐をもて之を待たん。」 ロマ8:25 大正文語訳聖書

「もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」 口語訳聖書

 「待つ」

動物にとって「待つ」ことができるのは高い能力だそうである。ウサギやネコはダメだが、訓練すれば犬は20秒、サルなら1分は「待てる」。友人の愛犬ラルはドッグフードの皿を前にして、よだれがタラーとたれるまでが限度である。私は「待つ」ことに耐えられなくなると、ラルの顔を思い出す。口からよだれが流れるほど、自分は待ち望んでいるのだろうかと考える。

(†心のデボーション02952)

† 心のデボーション 02953

「神むかしは預言者等により、多くに分ち、多くの方法をもて先祖たちに語り給ひしが、」 ヘブル1:1 大正文語訳聖書

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、」 口語訳聖書

 「全体の光」

主イエスが来られるまで、神は預言者たちを通して「いろいろな時に、いろいろな方法でπολυμερῶς καὶ πολυτρόπως」語られた。祥訳聖書は「<それぞれ真理の一部を提示する>数々の別々の啓示をもって、また、おれぞれ異なった方法で、預言者たちによって<おいて>語られました」と訳している。神は主イエス・キリストによってその全体を語られる。私たちは全体の視点から「真理の一部」を読み、さらに全体の奥深くを知るのである。

(†心のデボーション02953)

† 心のデボーション 02954

「神および主イエス・キリストの僕ヤコブ、散り居る十二の族の平安を祈る。」 ヤコブ1:1  大正文語訳聖書

「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。」 口語訳聖書

 「ディアスポラ」

「離散している十二部族 διασπορα」はローマ帝国の迫害によって各地に散ったユダヤ人である。この時代に世界に離散したユダヤ人は1948年建国をはたし、2000年に及ぶディアスポラ διασπορα の歴史に終止符を打った。現在も多くのユダヤ人は世界に散らされても民族としてのアイデンティティを失わず、「離散している十二部族 διασπορα」を忘れてはいない。教会は現在も、ヤコブが送った「ディアスポラへの挨拶」を送り続けるのである。

(†心のデボーション02954)

† 心のデボーション 02955

「王こたへて言はん『まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり』」 マタイ25:40 大正文語訳聖書

「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」 口語訳聖書

 「師の現われ」

「学ぶ準備がととのったとき師が現われる」といわれる。その時、現われる師は立派な教師や老賢者の姿をしているとは限らない。何でもない隣人だったり、ごく普通の生活をしている人だったりする。重い障害をもつ子どもである場合もあるかもしれない。まだ師が現われないのは、出会っていないのではなく、出会った人から学ぶという弟子の心が準備されていないからかもしれない。そのようにして、人は神の現われを経験するのではないか。

(†心のデボーション02955)

† 心のデボーション 02956

「即ち父なる神の預じめ知り給ふところに隨ひて、御靈の潔により柔順ならんため、イエス・キリストの血の灑を受けんために選ばれたる者に贈る。願はくは恩惠と平安と汝らに増さんことを。」 Ⅰペテロ1:1 大正文語訳聖書

「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」 口語訳聖書

 「神の予知」

キリスト者は「神の予知されたところによって選ばれたκατὰ πρόγνωσιν θεοῦ πατρός」者である。「予知 πρόγνωσις」は「前もって知る、予知する」の意味である。神は前もって知られるところにしたがってイエス・キリストに選ばれる。キリスト者は存在以前から神に知られ、神から遣わされて主イエス・キリストにあずかるのである。

(†心のデボーション02956)

† 心のデボーション 02957

「懶惰は人を酣寐せしむ 懈怠人は饑べし」 箴言19:15 明治元訳聖書

「怠りは人を熟睡させる、なまけ者は飢える。」 口語訳聖書

 「ぐずぐずの罠」

しなければならないことが沢山あるのに、何もする気になれない。起きてしまえば何でもないのに、ベットから離れられない。試験の時などのおなじみの心理である。本人は結構そんな自分を嫌悪しているのだが、つい罠にはまってしまう。人は気力があって行動するのではなく、行動するから気力が生まれる。まず一歩を踏み出してみると、ぐずぐずしていたことがおかしいくらいに何でもなく動けるものだ。

(†心のデボーション02957

† 心のデボーション 02958

「即ち父なる神の預じめ知り給ふところに隨ひて、御靈の潔により柔順ならんため、イエス・キリストの血の灑を受けんために選ばれたる者に贈る。願はくは恩惠と平安と汝らに増さんことを。」 Ⅰペテロ1:1 大正文語訳聖書

「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」 口語訳聖書

 「生ける石」

ペテロ Πέτροςの名は「岩」の意味である。ペテロはイエス・キリストを「生ける神の子キリスト」と告白し、イエスは「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と言われた。(マタイ16:18 口語訳聖書) キリストにあるすべての人は「選ばれた、尊い、生ける石 λίθον ζῶντα」であり、「それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」と言われる。(Ⅰペテロ2:4,5 口語訳聖書)

(†心のデボーション02958)

† 心のデボーション 02959

「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書

「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書

 「心の貧しい者」

「心の貧しい者 οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι」は「霊において貧しい者」である。彼は神と交わることの貧しさを自覚し、かすかなものに喜び、歓喜する。彼にとってすべては「恵み」である。「天の国はその人たちのものである」 ギリシャ語「evstin」は、やがてではなく、すでにその人のものであることを示す。「心の貧しさ」を受けることの中に、すでに「神の国の豊かさ」が来ている。「いますでにその人のものなればなり」 (内村鑑三『聖書注解全集8』)

(†心のデボーション02959)

† 心のデボーション 02960

「イエス・キリストの僕また使徒なるシメオン・ペテロ、書を我らの神および救主イエス・キリストの義によりて、我らと同じ貴き信仰を受けたる者に贈る。」 Ⅱペテロ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。」 口語訳聖書

 「正しい信仰」

「キリストの僕」とは「神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々」(口語訳聖書)である。「尊い信仰 πίστιν ἐν δικαιοσύνῃ」は「δίκαιος 正しい、義なる」信仰である。信仰は常に、正しくδίκαιος あることが求められる。

(†心のデボーション02960)

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