† 心のデボーション 02931
「キリスト・イエスの僕たる我ら、パウロとテモテと、書をピリピにをるキリスト・イエスに在る凡ての聖徒、および監督たちと執事たちとに贈る。」 ピリピ1:1 大正文語訳聖書
「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」 口語訳聖書
「執事」
「執事 διάκονος」は「仕える者、奉仕者」の意味で、教会に「僕」として監督を助け、教会の管理事務を担った。実務を担う執事は同時に「よい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない」(Ⅰテモテ3:9 口語訳聖書)とされた。尊い人々である。
(†心のデボーション02931)
† 心のデボーション 02932
「愛は隣を害はず、この故に愛は律法の完全なり。」 ロマ13:10 大正文語訳聖書
「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」 口語訳聖書
「一人前の人間」
ウスマン・センベーヌ監督は「一人前の人間」について「自分を受けとめ、働き、気を落とさず、泣かず、他の生活を無断で利用せず、また許してはならず、されるままになってもいけない。人間になるということはこういうことかもしれません」と語ったそうである。(小栗康平「見ること、在ること」より) なかでも難しいのは「他の生活を無断で利用せず」である。愛が欠けると、その悪が見えなくなる。「一人前の人間」とは、「愛の人」のことだと思う。
(†心のデボーション02932)
† 心のデボーション 02933
「我らは常に汝らの爲に祈りて、我らの主イエス・キリストの父なる神に感謝す」 コロサイ1:3 大正文語訳聖書
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。」 口語訳聖書
「我らは常に汝らの爲に祈り」
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、πάντοτε περὶ ὑμῶν προσευχόμενοι」(口語訳聖書)。塚本虎二訳聖書は「君達のため祈る時」と訳す。Πάντοτεには「いつも、どんな時にも」の意味がある。「感謝」は「祈り」から来る。「いつでも、どんな時にも」、祈りは神への感謝に導く。
(†心のデボーション02933)
† 心のデボーション 02934
「これ汝らが信仰のはたらき、愛の勞苦、主イエス・キリストに對する望の忍耐を、我らの父なる神の前に絶えず念ふに因りてなり。」 Ⅰテサロニケ1:3 大正文語訳聖書
「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。」 口語訳聖書
「信仰の働き」
「信仰の働き τοῦ ἔργου τῆς πίστεως」は「信仰によって活発になされるあなたがたの働き」(祥訳聖書)である。「働き ἔργον」は「行為、活動、仕事、労務、職務、企て」など、行為全般に及ぶ。信仰はすべての働きを活性化する。
(†心のデボーション02934)
† 心のデボーション 02935
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」 ロマ8:28 大正文語訳聖書
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」 口語訳聖書
「益となる」
「すべてのことがあい働いて益となる」には、まず、体験したすべてのことが益なのだと知らなければならない。それには、何でもない日常に思いを込め、「今」を丁寧に生きることだ。そうすると、人生には捨ててよいものなど一つもないことがわかる。自分のすべてが意味をもってつながるとき、自分が生きるのでなく、生かされていることが実感できる。そして、優しさが戻ってくる。
(†心のデボーション02935)
† 心のデボーション 02936
「これ汝らが信仰のはたらき、愛の勞苦、主イエス・キリストに對する望の忍耐を、我らの父なる神の前に絶えず念ふに因りてなり。」 Ⅰテサロニケ1:3 大正文語訳聖書
「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。」 口語訳聖書
「愛の労苦」
「愛の労苦 τοῦ κόπου τῆς ἀγάπης」は祥訳聖書「愛の動機から出た奉仕」である。「労苦 κόπος コポス」は「苦労、骨折り、面倒、難儀」を意味する。愛は面倒で難儀なことがらに耐えて、それを苦労と思わない力である。
(†心のデボーション02936)
† 心のデボーション 02937
「わが家かく神とともにあるにあらずや神萬具備りて鞏固なる永久の契約を我になしたまへり吾が救と喜を皆いかで生ぜしめたまはざらんや」 Ⅱサムエル23:5 明治元訳聖書
「まことに、わが家はそのように、神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かなとこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか。」 口語訳聖書
「ないものねだり」
ないものねだりとは、「そこにはないが、どこかにちゃんとあると知れているものを欲しがること」だという。そうだとすれば、ないものを無理に欲しがるのとは少し違う。どこかにはちゃんとある、その思いが捨てられず、せつないのである。もう止めようと思いながらも、ないものねだりをしていたい気持ちもある。そんな「願い」を、神は「救い」にまで「育て上げてくださる」だろうか?
(†心のデボーション02937)
† 心のデボーション 02938
「これ汝らが信仰のはたらき、愛の勞苦、主イエス・キリストに對する望の忍耐を、我らの父なる神の前に絶えず念ふに因りてなり。」 Ⅰテサロニケ1:3 大正文語訳聖書
「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。」 口語訳聖書
「望みの忍耐」
「主イエス・キリストに對する望の忍耐 τῆς ὑπομονῆς τῆς ἐλπίδος τοῦ κυρίου ἡμῶν ἰησοῦ χριστοῦ」。「忍耐 ὑπομονη」は「ὑπο 下に+ μονη 滞在する」から来て「下にとどまる」ことをあらわす。忍耐とはキリストへの希望の下に身を寄せることである。
(†心のデボーション02938)
† 心のデボーション 02939
「イエス口をひらき、教へて言ひたまふ」 マタイ5:2 大正文語訳聖書
「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」 新改訳聖書
「傾聴」
イエスが口を開かれることから、人の心に「傾聴」がはじまる。その逆ではない。「傾聴」は自分の聞きたいことを聞くのではなく、相手が語り伝えようとしていることを共感的に聞く力である。我らには、イエスが「口を開かれる」経験がある。私にむかって真っ直ぐにイエスのことばが発せられる。この経験から信仰がはじまる。
(†心のデボーション02939)
† 心のデボーション 02940
「人々なんぢらを曳きて付さんとき、何を言はんと預じめ思ひ煩ふな、唯そのとき授けらるることを言へ、これ言ふ者は汝等にあらず、聖靈なり。」 マルコ13:11 大正文語訳聖書
「そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。」 口語訳聖書
「心配」
「われわれを悩ます心配というのは、自然ではなく、われわれが自分自身に与える心配だけなのである」(パスカル『パンセ』より) つまり「心配の種」は外にあるよりも内にある。そのことに気づけば、かなりの「心配」は消えるかもしれない。
(†心のデボーション02940)
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