心のデボーション292

デボーション1
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† 心のデボーション 02911

「神むかしは預言者等により、多くに分ち、多くの方法をもて先祖たちに語り給ひしが、」 ヘブル1:1  大正文語訳聖書

「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、」 口語訳聖書

 「いろいろな時に、いろいろな方法で」

主は、昔は預言者を通して、「いろいろな時に、いろいろな方法で πολυμερῶς καὶ πολυτρόπως」語られた。「いろいろな時 πολυμερῶς」は「多くの部分に分けて」を意味し、「いろいろな方法 πολυτρόπως」は「多様に、様々に」の意味である。今は、主は御子によって「多くの部分に分けて」、「様々な方法で」語られる。

(†心のデボーション02911)

† 心のデボーション 02912

「ペテロ口を開きて言ふ、『われ今まことに知る、神は偏ることをせず、』」 使徒10:34  大正文語訳聖書

「そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、」 口語訳聖書

 「かたより見ない」

「かたよったことをする」は直訳で、「顔をとる」である。神はイスラエル人であろうと異邦人であろうと、その「顔」の違いで人を区別なさらないという意味である。「顔」で判断することから、差別がはじまる。人は「外のかたち」を見るが、神は「心」を見る。「顔」はどうでもよいというのではない。「心」を受け入れる人は、「顔」を、そのままに愛するのである。

(†心のデボーション02912)

† 心のデボーション 02913

「いつはる者はあらそひを起し つけぐちする者は朋友を離れしむ」 箴言16:28  明治元訳聖書

「偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。」 口語訳聖書

 「告げ口」

「告げ口」のギリシャ語は διαβάλλω で、「向こうへ投げる」から来ている。敵意をもって告発する行為である。告げ口をして回る人からは、やがて親しい友も離れていく。

(†心のデボーション02913)

† 心のデボーション 02914

「神よもだしたまふなかれ神よものいはで寂靜たまふなかれ」 詩篇83:1 明治元訳聖書

「神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。」 口語訳聖書

 「アサフの賛歌」

アサフは敵國が同盟を結び、激しい敵意をもって民をなきものにしようとしている時に、神が「沈黙を守らないで」、彼らに向かって口を開いてくださいと祈る。いかなる理由があっても、一つの民や国を「根こそぎ」にしようとする企みは許されることではない。

(†心のデボーション02914)

† 心のデボーション 02915

「愛する者よ、我なんぢが靈魂の榮ゆるごとく汝すべての事に榮え、かつ健かならんことを祈る。」 Ⅲヨハネ1:2 大正文語訳聖書

「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」 口語訳聖書

 「たましいに幸いあれ」

聖書で「幸いである」とは、「よい旅をする」という意味のことばである。「たましいに幸いを得るように」とは「たましいが行くべき道を順調にたどれますように」という祈りなのである。たましいは、いつも旅の途上にある。たとえ「死の陰の谷」を通ることがあっても恐れることはない。「行くべき道」のわきには、「緑の牧場」、「いこいのみぎわ」があり、「いつくしみと恵み」が追ってくるからである。(詩篇23篇)

(†心のデボーション02915)

† 心のデボーション 02916

「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ――」 ロマ1:1  大正文語訳聖書

「イエズス、キリストの僕にして使徒と召され、神の福音の為に別たれたるパウロ、――」 口語訳聖書

 「キリストの奴隷」

「僕 δοῦλος」は「奴隷、下僕、召使、従者」の意である。奴隷は対価を払って買い取られ、完全に主人に属する者であった。パウロは、自らを「キリストの奴隷」という。神がイエス・キリストを対価として支払うに値する価値をお認めになり、自分は「完全にキリストに従う者」とされたと証しするのである。

(†心のデボーション02916)

† 心のデボーション 02917

「如何なれば艱難にをる者に光を賜ひ 心苦しむ者に生命をたまひしや」 ヨブ3:20  明治元訳聖書

「なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。」 口語訳聖書

 「いのち」

心に痛みを持つ人を助けてあげるという考えは間違っている。むしろ、その人の痛みを通じて自分の隠れた痛みに導かれるのである。そして、その人が自分の力で回復していくのを見て、自分にも希望があると励まされる。ヨブは神に、なぜ自分に死ではなくいのちを与えるのかと抗議する。苦しみを通過しなければ輝かない光があり、痛まなければ与えられないいのちがある。それを見るまでは死んではならない。

(†心のデボーション02917)

† 心のデボーション 02918

「及び我と偕にある凡ての兄弟、書をガラテヤの諸教會に贈る。」 ガラテヤ1:2 大正文語訳聖書

「ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。」 口語訳聖書

 「わたしと共にいる兄弟たち一同から」

パウロはガラテヤの諸教会に送る書簡に、「わたしと共にいる兄弟たち一同から οἱ σὺν ἐμοὶ πάντες ἀδελφοί」(口語訳聖書)のことばを添える。「σὺν」は「共にある、一緒にいる」の意味である。これからガラテヤの諸教会に送ることがパウロの個人的なすすめではなく、共にいる多くの兄弟たちからものであることを明らかにするためである。キリスト者は、神がわたしたちを「イエスと共によみがえらせて σὺν ἰησοῦ ἐγερεῖ」くださったことにより、「共に御前に立つ παραστήσει σὺν ὑμῖν」者である。(Ⅱコリント4:14)

(†心のデボーション02918)

† 心のデボーション 02919

「イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる」 マタイ5:1 大正文語訳聖書

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」 新共同訳聖書

 「イエスの膝下」

私たちはイエスの弟子である。座して口を開かれるイエスの膝下におる。

「多くの讀むこと聴くこと、往々私を倦(うみ)厭(あ)かしめる。けれども爾の中にのみ私の願ふこと望むことは皆あるのである」 (トマス・アケンピス『基督のまねび』)

(†心のデボーション02919)

† 心のデボーション 02920

「讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて靈のもろもろの祝福をもて天の處にて我らを祝し、」 エペソ1:3 大正文語訳聖書

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、」 口語訳聖書

 「あらん限りの祝福をもって」

「霊のもろもろの祝福 ὁ εὐλογήσας ἡμᾶς ἐν πάσῃ εὐλογίᾳ πνευματικῇ」は、「キリストにあるἐν χριστῶ(キリストの中に)」祝福である。神はキリストの内にあるあらん限りの霊的な祝福をもってわたしたちを祝福される。

(†心のデボーション02920)

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