心のデボーション291

デボーション1
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† 心のデボーション 02901

「神の御意によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ、書をエペソに居る聖徒、キリストに在りて忠實なる者に贈る。」 エペソ1:1 大正文語訳聖書

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。」 口語訳聖書

 「エペソの教会」

本書は「エペソの教会」に宛てられた書簡として知られているが、重要な写本に「エペソ」の地名が欠けている。そこから本書はいくつかの教会への回状として書かれた書簡であったのではないかとも考えられる。エペソ1:1には「キリスト・イエスにあって忠実な聖徒」と「(エペソ)にいる」の二つのbeingがある。キリストに属する聖徒はいずれかの教会に属する者である。いずれの教会に属するとも、キリストにある者として同じ御言葉に生きる者である。

(†心のデボーション02901)

† 心のデボーション 02902

「斯てアビメレク、アブラハムを召て之に言けるは爾我等に何を爲すや我何の惡き事を爾になしたれば爾大なる罪を我とわが國に蒙らしめんとせしか爾爲べからざる所爲を我に爲したり 」 創世20:9  明治元訳聖書

「そしてアビメレクはアブラハムを召して言った、『あなたはわれわれに何をするのですか。あなたに対してわたしがどんな罪を犯したために、あなたはわたしとわたしの国とに、大きな罪を負わせるのですか。あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです』」 口語訳聖書

 「小さなうそ」

妻サラのことを「妹」と呼ばせたのは、アブラハムにとって、大きな災いを招かないための小さなうそであった。しかし、彼の小さなうそは災いを消すどころか、一つの王国を揺るがすほどの「大きな罪」に発展する。哀しみを伴った「小さなうそ」もある。自分が傷つくことから逃げるうそもある。しかし、うそはうそとして働く。アブラハムの心にあったのは、その「大きな罪」であった。

(†心のデボーション02902)

† 心のデボーション 02903

「この故に我ら聞きし所をいよいよ篤く愼むべし、恐らくは流れ過ぐる事あらん。」 ヘブル2:1 大正文語訳聖書

「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。」 口語訳聖書

 「注意深く心を注ぐ」

御言葉は「強く心に留めねばならない」。そうしなければ「おし流されてしまう」。「押し流される παραρρέω」は「間違った方向へ流れ去る」の意味である。御言葉のあるべき方向は恵みであり、恵みを失った御言葉から破壊がはじまる。「心に留める προσέχω」は「注意深く心を注ぐ」の意味である。

(†心のデボーション02903)

† 心のデボーション 02904

「身を正しくして歩履む義人はその後の子孫に福祉あるべし」 箴言20:7 明治元訳聖書

「欠けた所なく、正しく歩む人――その後の子孫はさいわいである。」 口語訳聖書

 「欠陥」

「たしかに、欠陥に満ちていることは、悪いことである。しかし、欠陥に満ちていながら、それを認めようとしないのは、なおもっとわるいことである。(パスカル『パンセ』より) 箴言の「欠けた所のない人」とは「תֹּם(完全、無罪、全体)」に歩む人のことである。「תֹּם(完全、無罪、全体)」に欠けることは悪いことである。しかし、さらに悪いのは「תֹּם(完全、無罪、全体)」に欠けることを認めようとせず、自らを義とすることである。

(†心のデボーション02904)

† 心のデボーション 02905

「ヱホバよわれを憐みたまへ われ萎みおとろふなり ヱホバよ我を醫したまへ わが骨わななきふるふ」 詩篇6:2  明治元訳聖書

「主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。」 口語訳聖書

 「ドンド焼き」

子どもの頃「門松おくれ、松おくれ、くれなきゃドンド焼きやらせない」と叫びながら、夜の街を練り歩いたものである。松をくれない家の子どもは仲間に入れてやらないぞと、脅してまわるのだ。子どもの遊びには、差別やいじわるが含まれている。子どもは心にある残酷な思いを遊びとして消化するのだろう。こうした遊びがなくなったことで、残酷な思いは現実の中に現れてきたのかもしれない。

(†心のデボーション02905)

† 心のデボーション 02906

「人よりに非ず、人に由るにも非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ、」 ガラテヤ1:1  大正文語訳聖書

「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、」 口語訳聖書

 「人よりに非ず、人に由るにも非ず」

パウロは自分が使徒とされたのは、「人々からでもなく、人によってでもなく」、「イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神」によると証ししている。「人々からでもなく、人によってでもなく οὐκ ἀπ᾽ ἀνθρώπων οὐδὲ δι᾽ ἀνθρώπου」の「ἀπό  アポ」は源泉を示す。信仰の源泉は「人々からでもなく、人によってでもなく」、「イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神」によるのである。

(†心のデボーション02906)

† 心のデボーション 02907

「神はわが強き堅衆にてわが道を全うし」 Ⅱサムエル22:33 明治元訳聖書

「この神こそわたしの堅固な避け所であり、わたしの道を安全にされた。」 口語訳聖書

 「ボタンのかけ違い」

ボタンのかけ違いはやり直すしかない。しかし、人生でおこるかけ違いには、それ以外の方法を考える必要がある。例えば、気づいた時点で、正しい位置を探し、間違いは後で修正する。間違いをそのまま放置して、全部ボタンをかけ終ったら、はさみを入れて服のデザインを少し変えるというのはどうだろうか? 人生では「はじめから全てやり直し」は必ずしも正解ではなく、むしろ、危険な方法であることもある。

(†心のデボーション02907)

† 心のデボーション 02908

「ヱホバは世々限なく王たるべし」 出エジプト15:18  明治元訳聖書

「主は永遠に統べ治められる」 口語訳聖書

 「永遠なるもの」

「ただ永遠なものでない限り、何も偉大とされるはない、何も貴重とsれ、又感服されるべきはない、何も名誉とするに足りるはない、何も高いはない、何も読むべき、又望ましきとするはない」(トマス・アケンピス『基督のまねび』より) 永遠をもとめよ。「今」に含まれる永遠を切に求めよ。

(†心のデボーション02908)

† 心のデボーション 02909

「イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる」 マタイ5:1 大正文語訳聖書

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」 新共同訳聖書

 「弟子の心を整える」

中国の古い格言に「弟子の心が整うと師が現われる」とある。師がいないのではない、弟子の心がないのである。

しかし、「弟子の心」さえあれば師が現われるとうものでもない。弟子に「弟子の心」を整える師があって、弟子は師を見出す。「弟子の心を整える」は「尋ねる心」を整えることである。「師」は現れてくる。

(†心のデボーション02909)

† 心のデボーション 02910

「願はくは我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。」 エペソ1:2 大正文語訳聖書

「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」 口語訳聖書

 「恵みと平安」

「恵みと平安 χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη」は「父なる神と主イエス・キリストから」来る。「平安 εἰρήνη  エイレーネー」は「平和、一致、和睦」であり「神との平和」によって与えられる心の平安である。この「平安」は「恵み χάρις   かリㇲ(恩寵、神の愛)」によってもたらされる祝福である。恵みのあるところに平安があり、平安のあるところに愛がある。

(†心のデボーション02910)

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