心のデボーション290

デボーション1
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† 心のデボーション 02891

「また 『主よ、なんぢ太初に地の基を置きたまへり、 天も御手の業なり。』」 ヘブル1:10 大正文語訳聖書

「さらに、/「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。」 口語訳聖書

 「地の基」

「地の基をおすえになった τὴν γῆν ἐθεμελίωσας」は「地の土台を置かれた」てある。天と地は自然に発生したのではなく、神がまず初めに、その土台を据えられたのである。「私」をはじめ、あらゆる存在はその理由を神に持つのである。

(†心のデボーション02891)

† 心のデボーション 02892

「ヱホバよ願くはわが終とわが日の數のいくばくなるとを知しめたまへ わが無常をしらしめたまへ」 詩篇39:4 明治元訳聖書

「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。」 口語訳聖書

 「だいたいのところ」

いのちの終わりが近づいている時、「あと、どれくらいなのか」を正確に知るべきだろうか。あえて告げてもらわなくてもいい、だいたいのところはわかる気もするから、という考え方もある。詩人の知りたいのも、いのちのはかなさではなく、神に生きる望みである。だいたいのところを受け入れて、あとを知ることも、告げよと求めることもしない生き方も、神に望みを置く、一つの信仰である。

(†心のデボーション02892)

† 心のデボーション 02893

「言は肉體となりて我らの中に宿りたまへり、我らその榮光を見たり、實に父の獨子の榮光にして、恩惠と眞理とにて滿てり。」 ヨハネ1:14  大正文語訳聖書

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」 口語訳聖書

 「恵みとまこと」

「恵み χάρις   かリㇲ」は、神の「優しさ、恩寵、愛」を、「まこと ἀλήθεια   アれーてイア」は「真理、現実、真実」を意味する。「恵み(恩寵)」は「まこと(真理、現実、真実)」の中にあり、「まこと(真理、現実、真実)」は「恵み(恩寵)」の中に現れる。「まこと(真理、現実、真実)」を求める人は「恵み(恩寵)」に生きる人である。

(†心のデボーション02893)

† 心のデボーション 02894

「禍害ある者は誰ぞ 憂愁ある者は誰ぞ 爭端をなす者は誰ぞ 煩慮ある者は誰ぞ 故なくして傷をうくる者は誰ぞ 赤目ある者は誰ぞ」 箴言23:29  明治元訳聖書

「災ある者はだれか、憂いある者はだれか、争いをする者はだれか、煩いある者はだれか、ゆえなく傷をうける者はだれか、赤い目をしている者はだれか。」 口語訳聖書

 「矛と盾」

「矛盾」は韓非子の有名な矛と盾の話からくる。

〔楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。これを誉めて曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥すもの莫きなり、と。又その矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於て陥さざる無きなり、と。或るひと曰く、子の矛を以て、子の楯を陥さば何如、と。その人応うる能(あた)わざるなり。〕

着き通せない盾と何でも突き通す矛は両立しない。

(†心のデボーション02894)

† 心のデボーション 02895

「智慧ある人の敎訓はいのちの泉なり 能く人をして死の罟を脱れしむ」 箴言13:14  明治元訳聖書

「知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。」 口語訳聖書

 「盂蘭盆」

仏教によれば、「盂蘭盆」はサンスクリット語「ウランバナullambana」の音訳で、「倒懸(逆さ吊りの苦しみ)」を意味するのだそうである。お盆は餓鬼道におちた父母の苦しみを除くための年に一度の祭りと知れば、切ない思いがする。死後の世界の教えはどこまでも現世の人間と結びついているのだろう。

(†心のデボーション02895)

† 心のデボーション 02896

「死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある」 Ⅰコリント15:55  大正文語訳聖書

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。口語訳聖書

 「死の病」

「病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには――最も健康に病気になるには――隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法である。」(スーザン・ソンダク『隠喩としての病い』より) 「死の病」のもっとも難しい治療は隠喩からの癒しである。

(†心のデボーション02896)

† 心のデボーション 02897

「堅き食物は智力を練習して善惡を辨ふる成人の用ふるものなり。」 ヘブル5:14 大正文語訳聖書

「しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」 口語訳聖書

 「霊的糧」

善悪を「見分ける感覚」が薄いのは、「耳が鈍くなって」いるからで、「神のことばの初歩」から「柔らかい食物」ばかりではなく「堅いおとなの食物(神のことば)」を摂るべである。霊的成人の摂る霊的食物がある。

(†心のデボーション02897)

† 心のデボーション 02898

「イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる」 マタイ5:1 大正文語訳聖書

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」 新共同訳聖書

 「弟子たち御許にきたる」

「弟子たち御許にきたる」は、明治元訳聖書「來れり」である。「來」という漢字は「麥 むぎ」に通じ、「麥」は穂の実った小麦を持ち運ぶことで、「來 くる」と表現するようになった。「來」は結構なものを持ってくる者を、頭をさげて招くのである。弟子たちはどのような「結構なもの」をもってイエスのところに「来た」のだろうか。

(†心のデボーション02898)

† 心のデボーション 02899

「善惡を辨へ知り、キリストの日に至るまで潔よくして躓くことなく、」 ピリピ1:10  大正文語訳聖書

「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、」 口語訳聖書

 「嫌いな人」

嫌いな人をただちに好きになるのは無理だが、嫌いという感情を何とかしたいのだったら方法はある。まず、自分がその人から嫌われているのではないかという思いを捨てることでる。その上で、その人をほめてみる。両方とも嫌だというのであれば、少し離れることもよい。嫌いといいながら近づくのは、「愛であるか、憎しみであるか」について考えてみたいからかもしれない。人生は「嫌いな人」がいて普通なのだ。

(†心のデボーション02899)

† 心のデボーション 02900

「汝等もし我に居り、わが言なんぢらに居らば、何にても望に隨ひて求めよ、さらば成らん」 ヨハネ15:7  大正文語訳聖書

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」 口語訳聖書

 「正しい配列」

「単語は、その配列が異なると、異なる意味を生じ、意味は、その配列が異なると、異なる効果を生じる」(パスカル『パンセ』より たとえば、grand homme 「偉人」と homme grand  「巨人」)

ことばは正しい配列を求める。

(†心のデボーション02900)

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