† 心のデボーション 02881
「ヤコブの子ユダとイスカリオテのユダとなり。このユダはイエスを賣る者となりたり」 ルカ6:16 大正文語訳聖書
「ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。」 口語訳聖書
「裏切り」
「裏切り」の「裏」は後ろのことで、「背後から味方に切られる」の意味である。ギリシャ語の「裏切り προδότης」は「売り渡す、背教者」の意味に用いられる。ユダは銀貨30枚で背後からイエスに切りつけたのである。
(†心のデボーション02881)
† 心のデボーション 02882
「忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。」 ロマ5:4 大正文語訳聖書
「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」 口語訳聖書
「希望」
パウロにとって「困難」は自分の品性を練り、やがて希望を生み出すエネルギーであった。困難であっても、じっと耐えて一つのことに取り組んでいると、それが内的な枠組みとなっていく。そうなると、成功とか失敗とか、他人の無責任な評価に一喜一憂することもなくなる。本物の「希望」が見えてくる。希望に生きる人は焦って変化を求めたりしない。
(†心のデボーション02882)
† 心のデボーション 02883
「かれらの毒は蛇のどくのごとし かれらは蠱術(まじわざ)をおこなふものの甚(いと)たくみにまじなふその聲をだにきかざる耳ふさぐ聾ひの蝮のごとし」 詩篇58:4,5 明治元訳聖書
「彼らは、蛇の毒のような毒を持ち、その耳をふさぐ耳しいのコブラのようだ。これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない」 新改訳聖書
「その耳をふさぐ耳しいのコブラ」
「その耳をふさぐ耳しいのコブラ」(口語訳聖書)という。もともと蛇は耳はほとんど退化して音は聞こえないのだそうである。地面から伝わる音の振動を顎の骨で聞き取るので近づいてくる獲物を捕らえるのに不自由はしない。「その耳をふさぐ耳しいのコブラ」(口語訳聖書)は猛毒をもちながらも、蛇使いは無論の事、地面を伝わる音にも聞こうとしない蛇なのだろう。相手構わずいきなり咬みつくので危険このうえない。
(†心のデボーション02883)
† 心のデボーション 02884
「そはなんぢの憐憫はわれに大なり わがたましひを陰府のふかき處より助けいだしたまへり」 詩篇86:13 明治元訳聖書
「わたしに示されたあなたのいつくしみは大きく、わが魂を陰府の深い所から助け出されたからです。」 口語訳聖書
「コンプレックス」
コンプレックス complex はラテン語 com + plectere(織りこむ)から来ており、複雑に絡まったものを意味し、「心の複雑なこだわり」のことである。ユングは、人の心の中には感情に色づけられた無意識の塊のようなものがあり、それをコンプレックス complex と考えた。意識の深部には複雑に絡み合い、織りこまれた無意識の世界がある。その存在に気づくことは意識の重要な役割であるかもしれない。
(†心のデボーション02884)
† 心のデボーション 02885
「世を用ふる者は用ひ盡さぬが如くすべし。此の世の状態は過ぎ往くべければなり」 Ⅰコリント7:31 大正文語訳聖書
「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」 口語訳聖書
「深入りしないように」
「世の事にかかわっている人」(新共同訳聖書)は「それに深入りしないようにすべきである。」(口語訳聖書) 「深入りする καταχράομαι」は「使い尽くす、利用する」の意味である。「この世の有様」は過ぎゆくものだからである。
(†心のデボーション02885)
† 心のデボーション 02886
「謙遜者はこれを見てよろこべり 神をしたふ者よなんぢらの心はいくべし」 詩篇69:32 明治元訳聖書
「へりくだる者は、これを見て喜べ。神を求める者よ、あなたがたの心を生きかえらせよ。」 口語訳聖書
「心に喜びあれ」
理由もないのに人から憎まれることがある。詩人も盗まなかったのに盗んだと、ありもしない疑いをかけられている。しかし、詩人は汚名をきせられた「私の愚かさ」にも神は介入してくださると信じる。そして、「心の貧しき人たちよ、あなたがたの心を生かせ」と語るのである。「心を生かせ」は「心に喜びあれ」である。(フランシスコ会訳)「愚かさ」はそのままにしておくのがよい。
(†心のデボーション02886)
† 心のデボーション 02887
「われ歎息にてつかれたり 我よなよな床をただよはせ涙をもてわが衾をひたせ」 詩篇6:6 明治元訳聖書
「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」 口語訳聖書
「涙の洪水」
「夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ」は、新共同訳聖書は「夜ごと涙は床に溢れ」と訳す。涙は床に溢れて洪水となり詩人を泳がせるのである。とめどなく溢れる涙を止めるのは、嘆きの声を聞き給う神がおられることである。(詩篇6:8)
(†心のデボーション02887)
† 心のデボーション 02888
「イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる」 マタイ5:1 大正文語訳聖書
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」 新共同訳聖書
「カテドラ」
ローマ教皇の座る椅子は「エクス・カテドラ ex cathedra」と呼ばれる。「cathedra」は「司教座」の意味で、この椅子からおこなわれる説教や宣言は聖く正しいもので決して間違い得ないものとされる。カソリックではこの座のある教会を司教座聖堂 ecdesia cdathedralis という。人のかたる言葉で、忌避しえず、不可謬なものなどはない。しかし、「エクス・カテドラ」は人間の中に確かに存在する。イエスは「山」に登られ、腰を下ろされた。己が坐する所を間違えてはなるまい。
(†心のデボーション02888)
† 心のデボーション 02889
「石を打くだく者はそれがために傷を受け木を割る者はそれがために危難に遭ん」 伝道10:9 明治元訳聖書
「石を切り出す者はそれがために傷をうけ、木を割る者はそれがために危険にさらされる。」 口語訳聖書
「木を割る」
下手が木を割ると木が暴れる。それもわからずに力で割ろうとするので、跳ねた木に打たれたりする。危険はいつもこちらの未熟さから生じる。上手はあばれを避け、木をなだめながら一気に割る。木が暴れたら、もうその個所を攻めないことだ。木には必ず、割れを受け入れるところがある。それを見抜くのが上手の技である。
(†心のデボーション02889)
† 心のデボーション 02890
「言は肉體となりて我らの中に宿りたまへり、我らその榮光を見たり、實に父の獨子の榮光にして、恩惠と眞理とにて滿てり。」 ヨハネ1:14 大正文語訳聖書
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」 口語訳聖書
「悲しみの人で、病を知っていた」
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。」 イザヤ53:3 口語訳聖書
「宿る σκηνόω スケーノオー」は「天幕を張る」の意味である。砂漠の民は野に天幕を張ってそこに棲んだ。で、イエスは肉体をとられ(仮小屋としての天幕を張り)、そこに住まわれたた。主イエスは神の子であられたが、人の弱さ、苦しみ、寂しさ、悲しみ、病を知らないお方ではない。人と共に涙されるお方である。
(†心のデボーション02890)
コメント