† 心のデボーション 02871
「この末の世には御子によりて、我らに語り給へり。神は曾て御子を立てて萬の物の世嗣となし、また御子によりて諸般の世界を造り給へり。」ヘブル1:2
「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」 口語訳聖書
「終末」
「終りの時(終末)」とは、神が「御子によって、わたしたちに語られ」る時のことである。そのいみではわたしたちは「終りの時」に生きているのである。
(†心のデボーション02871)
† 心のデボーション 02872
「その艶美を心に戀ふことなかれ その眼瞼に捕へらるること勿れ」 箴言6:25 明治元訳聖書
「彼女の麗しさを心に慕ってはならない、そのまぶたに捕えられてはならない。」 口語訳聖書
「美しさを慕うな」
自分はブスだと思いこみ、それで心を傷つけている人に「あなたはブスではない」と告げても、慰めにならない。まして「それほどブスではない」などというのは余分なことである。そんな時には「誰も本当の自分を見てくれないって、つらいことですよね」といってみるのはどうか。箴言は女の美しさを慕うものは、道を踏みはずすと警告している。美しさで男を誘う心はすでに道を踏みはずしている。
(†心のデボーション02872)
† 心のデボーション 02873
「聖書はみな神の感動によるものにして、教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり。」 Ⅰテモテ3:16 大正文語訳聖書
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」 口語訳聖書
「霊感を受けて書かれたもの」
「霊感 θεόπνευστος」は「息を吹きかける」の意味である。聖書は神が息をふきかけられた書であり、語られたことばは創造的ないのちそのものである。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4 口語訳聖書)
(†心のデボーション02873)
† 心のデボーション 02874
「ヱホバわれに答へて言たまはく 此默示を書しるして之を板の上に明白に鐫つけ奔りながらも之を讀むべからしめよ」 ハバクク2:2 明治元訳聖書
「主はわたしに答えて言われた、この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ」 口語訳聖書
「走りながらも」
神のことばを「板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ」。(口語訳聖) 急を知らせに走る時、いち早く逃走しなければならない危機の中など、人が走るのは、それなりに事情がある。しかし、どのような事情があれ、主のことばを読むことができるようにすべきである。
(†心のデボーション02874)
† 心のデボーション 02875
「聖なる預言者たちの預じめ云ひし言、および汝らの使徒たちの傳へし主なる救主の誡命を憶えさせんとす。」 Ⅱペテロ3:2 大正文語訳聖書
「それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。」 口語訳聖書
「新約聖書と旧約聖書」
ペテロは旧約聖書も新約聖書も心の憶えよと勧める。共に神の御言葉である。旧約聖書を忘れてはならず、新約聖書から離れてもならない。両書を手の取ることのできる幸いを学びたい。
(†心のデボーション02875)
† 心のデボーション 02876
「汝等その華美なる衣を著たる人を重んじ視て『なんぢ此の善き處に坐せよ』と言ひ、また貧しき者に『なんぢ彼處に立つか、又はわが足下に坐せよ』と言はば、」 ヤコブ2:3 大正文語訳聖書
「その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、」 口語訳聖書
「ブランド」
靴を60足、カバン15個、時計が18個、すべてブランドである。モノが増えていくにつれて、自分が充実していくような気がするという。モノについて語るのは楽しい。しかし、モノに自分を語らせようとするのは間違いではないだろうか。モノは必ずしもその人を正確に語らない。時には、その人を裏切ることもある。モノがわかる人は、人を服装で判断などしない。
(†心のデボーション02876)
† 心のデボーション 02877
「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23 明治元訳聖書
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」 口語訳聖書
「油断」
「裏をかく」は槍や刀が相手の鎧を貫いて裏まで届くの意味だそうである。攻撃を防ぐための鎧が思わぬ不覚をとって裏をかかれたのだ。完璧な鎧などないと知るべきか。鎧でかためた心はむしろ危ない。
(†心のデボーション02877)
† 心のデボーション 02878
「イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる」 マタイ5:1 大正文語訳聖書
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」 新共同訳聖書
「同意して向かう」
「御許にきたる προσέρχομαι プロセルこマイ」の原意は 「πρός 向かって + ἔρχομαι 行く、来る」で、「同意して向かう」ことを意味する。荒野の試みの後、「ここに惡魔は離れ去り、視よ、御使たち來り事へぬ(προσέρχομαι プロセルこマイ)」(マタイ:11)とあり、ここでは弟子たちがイエスに同意して近づく。
(†心のデボーション02878)
† 心のデボーション 02879
「われ汝らに模範を示せり、わが爲ししごとく汝らも爲さんためなり。」 ヨハネ13:15 大正文語訳聖書
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」 口語訳聖書
「誰かの足を」
教会で講演会のあった日の夜、銭湯で講師の先生にばったり会った。先生は中学生の私をつかまえて「おお、よくアカが出るな」などといいながら、背中を洗ってくれた。かつて、主はペテロの足を洗われた。そして「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」といわれた。誰かが私の足を洗ってくれたのは、誰かの足を洗うためであった。私はあまりに緊張して、お礼に講師の先生の背中を洗うことをすっかり忘れてしまった。
(†心のデボーション02879)
† 心のデボーション 02880
「信仰によりてキリストを汝らの心に住はせ、汝らをして愛に根ざし、愛を基とし、」 エペソ3:17 大正文語訳聖書
「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、」 口語訳聖書
「愛に根ざして」
相手の言葉の意味を知るのは愛である。愛のない人は相手への関心が薄く、相手に向けることばを持っていない。豊かなことばとの出会いは愛の出会いである。それは決して「上手いことば」などではない。「愛に根さじて θῥιζόω」は「愛に深く根をおろして、根ずかせる」の意味である。
(†心のデボーション02880)
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