心のデボーション286

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† 心のデボーション 02851

「彼らの咽は開きたる墓なり、 舌には詭計あり、 口唇のうちには蝮の毒あり」 ロマ3:13 大正文語訳聖書

「彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、」 口語訳聖書

 「クレオパトラの蛇」

クレオパトラが胸を噛ませた毒蛇アスプ asp はギリシャ語 ἀσπίς エジプトコブラ で、噛まれると猛毒によって苦痛もなく眠るように死ぬという。ロマ3:13の、神から離れた人の「のどは、開いた墓」であり、「その舌で人を欺き」、その「くちびるには、まむし(ἀσπίς)の毒」がある。それは相手のいのちを瞬時に奪う猛毒である。

(†心のデボーション02851)

† 心のデボーション 02852

「斯く汝らは凡ての賜物に缺くる所なくして、我らの主イエス・キリストの現れ給ふを待てり。」 Ⅰコリント1:7 大正文語訳聖書

「こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。」 口語訳聖書

 「別の墓」

夫とは別の墓を欲しがる妻もいる。死んでまで、夫と一緒にいるのはいやというのがその理由だという。パウロにしたがえば、「苦しみをともにする」ことは、「慰めをともにする」ことである。苦しみの中に慰めがなければ、「ともにある」ことの意味がない。苦しみばかりで慰めがないのは、「苦しみをともにしている」のではなく、一方的に苦しみだけを押しつけられているからかもしれない。先の妻が求めるのは墓のことではない。

(†心のデボーション02852)

† 心のデボーション 02853

「かれらはわが足をとらへんとて網をまうく わが霊魂はうなたる かれらはわがまへに阱をほりたり而してみづからその中におちいれりセラ」 詩篇57:6  明治元訳聖書

「彼らはわたしの足を捕えようと網を設けました。わたしの魂はうなだれました。彼らはわたしの前に穴を掘りました。しかし彼らはみずからその中に陥ったのです。〔セラ〕 口語訳聖書

 「うなだれるな」

「うなだれる」は「項を垂れる」で、文字通り、うなじを垂れて俯く。人が足を捕らえようと網を張り、落ち込ませようと自分の前に穴を掘るとき、「うらだれる (「魂は屈み込んで」新共同訳聖書訳)」ことのない人がいるだろうか? しかし、詩人が見たように、捕らえようとして網を張り、落とそうとして穴を掘る者は「みずからその中に陥る」のである。

(†心のデボーション02853)

† 心のデボーション 02854

「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり」 詩篇46:1  明治元訳聖書

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」 口語訳聖書

 「アース」

避雷針を意味する英語はearth(地球、大地、土)である。雷を地中(地球、地面)に導く装置を指す。船にはマストの上に避雷針(アース)をつけて、海中にアースする。魂が頭につけるアースはないものか。

(†心のデボーション02854)

† 心のデボーション 02855

「もし全身、眼ならば、聽くところ何れか。もし全身、聽く所ならば、臭ぐところ何れか」 Ⅰコリント12:17 大正文語訳聖書

「もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。」 口語訳聖書

 「生けるキリストの教会」

目には目の、耳には耳の、鼻には鼻の機能がある。健全な理解のためは、これらの異なる機能が十全に働く必要がある。教会はそれぞれの賜物が有機的に結ばれる生けるキリストの肢体である。まず、自らが「生けるキリストの教会」でなければならない。

(†心のデボーション02855)

† 心のデボーション 02856

「われはわが霊魂をもださしめまた安からしめたり 乳をたちし嬰兒のその母にたよるごとく 我がたましひは乳をたちし嬰兒のごとくわれに恃れり」 詩篇131:2  明治元訳聖書

「かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」 口語訳聖書

 「勝ち負け」

好きではじめたスポーツも、勝つことだけが目標になれば苦しいものになる。勝って当然という世界には負けることが考えられていない。勝つことばかりを考えているうちに、いつしか、負けたらどうしようと怯えるようになる。本当に強い人は全部勝とうとしない。勝つことを楽しみ、負けることを楽しむ。負けることによっても、「自分のたましいを和らげ、静める」ことができるなら、その強さは本物であろう。

(†心のデボーション02856)

† 心のデボーション 02857

「惡人は死るときにその望たえ 不義なる者の望もまた絶べし」 箴言11:7  明治元訳聖書

「悪しき者は死ぬとき、その望みは絶え、不信心な者の望みもまた絶える。」 口語訳聖書

 「鵜の目鷹の目」

「鵜の目鷹の目」は鵜が水中で魚を追う「目」、鷹が空中で獲物を追う「目」をいう。とすれば、「鵜の目鷹の目」は空中にも海中にも向けられる「目」のことだろうか? 鋭くても一つの世界しか見ない目ではなく、天と地をくまなく探す鋭い目である。しかし、それにしても「鵜の目鷹の目」が自分の利益のための貪欲な目になりさがるのは残念である。

(†心のデボーション02857)

† 心のデボーション 02858

「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの彼方より、大なる群衆きたり從へり」 マタイ4:25 大正文語訳聖書

「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」 新共同訳聖書

 「従う」

「従う ἀκολουθέω  アコるーてオー」は「α  一緒に + κέλευθος 道」で「同じ道を歩む、一緒に行く、~に同行する」の意味であり、そこから「弟子になる」の意味に使われる。イエスの弟子になるということは、イエスの歩まれたと同じ道(十字架と復活)を行くことである。

(†心のデボーション02858)

† 心のデボーション 02859

「汝等もし聖書にある『おのれの如く汝の隣を愛すべし』との尊き律法を全うせば、その爲すところ善し。」 ヤコブ2:8  大正文語訳聖書

「しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。」 口語訳聖書

 「自己愛」

自分を愛することは罪だろうか? 自分を愛せない人には、他人を愛することもできないのではないか。他人への愛に向かわず、自分しか愛せないことが罪である。その人は受けることしか考えず、与えることが出来ない。自分を愛するには、自分を与えることである。自分という存在をまるごと喜べるからこそ、他人をそのままで喜ぶことができる。

(†心のデボーション02859)

† 心のデボーション 02860

「汝ら怒るとも罪を犯すな、憤恚を日の入るまで續くな。」 エペソ4:26  大正文語訳聖書

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」 口語訳聖書

 「怒り」

「奴隷とは怒りを忘れた人間のことである。」(亀井勝一郎『絶望からの出発』より) 怒りを忘れない奴隷は、たとえ奴隷になったとしても自分を忘れない。

(†心のデボーション02860)

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