心のデボーション281

デボーション1
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† 心のデボーション 02801

「かかる人は血脈によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ、神によりて生れしなり。」 ヨハネ1:13  大正文語訳聖書

「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」 口語訳聖書

 「男の意志によらず」

「神の子」は「血脈によらず、情慾によらず、人の意によらず」ただ神によって生まれる。「人の意(こころ)」をフランシスコ会訳聖書は「男の意志によってでもなく」と訳す。「男 ἀνήρ  アネール」は「成人した人間」の意味である。神を知る恵みは「成人した人間にではなく、「幼子のごとくに身を低くする者」に与えられるのである。(マタイ17:1~3)

(†心のデボーション02801)

† 心のデボーション 02802

「彼らは虛浮者および虛妄の占卜を見る彼等はヱホバいひたまふと言ふといへどもヱホバはかれらを遣さざるなり然るに彼らその言の成らんことを望む」 エゼキエル13:6 明治元訳聖書

「彼らは虚偽を言い、偽りを占った。彼らは主が彼らをつかわさないのに『主が言われる』と言い、なおその言葉の成就することを期待する。」 口語訳聖書

 「期待」

期待感が見せる風景というものがある。しかし、あまりに過大な期待は見るものを誤らせることがある。良いことを期待する朝に小鳥の鳴き声が自分を祝福しているかのように聞こえるのである。その逆もある。誤解がすべて悪いのではなく、誤魔化しのために利用するのがよくないのだ。

(†心のデボーション02802)

† 心のデボーション 02803

「サウルいひけるは我罪ををかせりわが子ダビデよ歸れわが生命今日爾の目に寶と見なされたる故により我々かさねて爾に害を加へざるべし嗚呼われ愚なることをなして甚だしく過てり 」 Ⅰサムエル26:21 明治元訳聖書

「その時、サウルは言った、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。きょう、わたしの命があなたの目に尊く見られたゆえ、わたしは、もはやあなたに害を加えないであろう。わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした」 口語訳聖書

 「ごめんね」

「ごめんね」の一言でどんなけんかも終止符が打てるのが仲のよい夫婦であろう。サウルの場合、「ごめんね」というのだが、時間が経つとどこふく風と、同じ過ちを犯す。サウルのような人は、その時、その時は心底から謝罪するので、ついこちらも許してしまう。サウルの妻は「ごめんね」に隠されている身勝手な甘えを見破らなければならない。それにも、サウルは「本当にごめんね」と返してくるので、誤魔化されてはいけない。

(†心のデボーション02803)

† 心のデボーション 02804

「四千は門を守る者たりまた四千はダビデが造れる讃美の樂器をとりてヱホバを頌ることをせり」 Ⅰ歴代23:5 明治元訳聖書

「四千人は門を守る者となり、また四千人はさんびのためにわたしの造った楽器で主をたたえよ」。 口語訳聖書

 「賛美の楽器」

ウクレレ ukulele はハワイ語で ウク(uku)は「蚤」で、(lele)「飛び跳ねる」の意味だそうである。演奏者の指が蚤が跳ねるように動くところからウクレレと呼ばれるようになった。どの楽器も、熟練の業をもって主を讃えるのを聞くのは楽しい。

(†心のデボーション02804)

† 心のデボーション 02805

「わがたましひ痛めるによりてとけゆく ねがはくは聖言にしたがひて我にちからを予へたまへ」 詩篇119:28  明治元訳聖書

「わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。」 口語訳聖書

 「燃え尽き症候群」

医療関係の仕事につく人に「燃え尽き症候群」がよく見られるという。病の苦悩や別れを身近に目撃するたびに、苦しみをわが身に負うことになるからだろうか。自身の悲しみであれ、他者の悲しみであれ、一つ一つを神に委ねる祈りが求められる。

(†心のデボーション02805)

† 心のデボーション 02806

「なんぢ我によろこびと快樂とをきかせ なんぢが碎きし骨をよろこばせたまへ」 詩篇51:8  明治元訳聖書

「わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。」 口語訳聖書

 「目の見えないカメラマン」

目の見えないカメラマンがいた。彼は元からカメラマンだったのではなく、目が見えなくなってからカメラで風景を撮るようになったという。目の見えない人がどうして写真を楽しめるのか、不思議に思うかもしれない。それは、耳の聞こえない人が手話で音楽を聞くのと同じなのだろうか? いつか、その写真展を見に行きたいと思っている。景色は目の見える人のものだけではない。

(†心のデボーション02806)

† 心のデボーション 02807

「わが眼はなやみの故をもておとろへぬ われ日ごとに汝をよべり ヱホバよなんぢに向ひてわが兩手をのべたり」 詩篇88:9  明治元訳聖書

「わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。」 口語訳聖書

 「悲しみの涙」

悲しみの涙は目を霞ませる。悲しみの目の衰えは、物事を正しく見る力も失わせ、さらに悲しみの度合いを強くする。神を呼び求め、神に両手を伸べよ。神があなたの魂を拒まれていると感じ、心が乱れる時にも、ただ、ひたすらに祈れ。神にとどかない祈りはない。(詩篇88:13~15)

(†心のデボーション02807)

† 心のデボーション 02808

「その噂あまねくシリヤに弘り、人々すべての惱めるもの、即ちさまざまの病と苦痛とに罹れるもの、惡鬼に憑かれたるもの、癲癇および中風の者などを連れ來りたれば、イエス之を醫したまふ」 マタイ4:24 大正文語訳聖書

「そこで、イエズスの評判は全シリアに広まり、人々は、さまざまな病気や苦しみに悩んでいる者、悪魔につかれている者、てんかん、中風の人など、あらゆる病人をイエズスのもとに連れて来た。イエズスは彼らをお治しになった」 フランシスコ会訳聖書

 「色とりどりの苦しみ」

「いろいろな病気や苦しみに悩む者」 「いろいろな ποικίλος  ポイキろス」は「色とりどりの、さまざまな、多様な」。「悩む βασάνοις συνεχομένους」は「βάσανος バサノス 地獄の責め苦」に「συνέχω  スネコー 一緒にしておく、離れぬように固まって保つ、まわりから圧迫する、身動き出来ぬようにこみあう、~にしばられている」状態。色とりどりの「苦しみ」にかこまれ、「試練の黒い石」に身動きとれぬよう固定されてしまった人々である。

(†心のデボーション02808)

† 心のデボーション 02809

「夫たる者よ、汝らその妻を己より弱き器の如くし、知識にしたがひて偕に棲み、生命の恩惠を共に嗣ぐ者として之を貴べ、これ汝らの祈に妨害なからん爲なり。」 Ⅰペテロ3:7  大正文語訳聖書

「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。」 口語訳聖書

 「弱い器」

あるテレビで、妻が夫の会社に「ケチャップのふたが開かないので帰ってきて」と電話したら夫はどうするかという実験をした。すると、外国人の中に車を飛ばして大急ぎで家に帰った夫が何人かいたという。この妻は「弱い器」だろうか? この種の比較は、お国柄の違いですませたいところだが、ケチャップの蓋が開かないという妻の電話に車を飛ばせる勇気に声援をおくりたい。私にはとてもできない。

(†心のデボーション02809)

† 心のデボーション 02810

「翌朝ヨナタン一小童子を從がヘダビデと約せし時刻に野にいでゆき」 Ⅰサムエル20:35 明治元訳聖書

「あくる朝、ヨナタンは、ひとりの小さい子供を連れて、ダビデと打ち合わせたように野原に出て行った。」 口語訳聖書

 「打合せ」

「打合せ」ということばは、雅楽の合奏で異なる楽器と息を合わせるために「打ち合わせる」からきたものだそうである。そこから前もって相談することの意味になった。互いの音に耳を傾け、息を合わせることが見事な演奏につながる。ダビデとヨナタンの間には、困難の中にも、互いの心に響く美しい調べがあった。

(†心のデボーション02810)

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