心のデボーション280

デボーション1
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† 心のデボーション 02791

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」 詩篇46:1  明治元訳聖書

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」 口語訳聖書

 「砲弾の穴」

「砲弾の穴」は、第1次世界大戦の頃、一度砲弾の落ちた穴の中に入っていれば安全だと考えられた言葉である。砲弾が全く同じところに落ちる確率は低いという思いはわかるが、根拠はない。確率は低くても、砲弾に直撃される可能性は常に当たるか当たらないかの二つに一つである。

(†心のデボーション02791)

† 心のデボーション 02792

「汝また心に念ふべし人のその子を懲戒ごとく汝の神ヱホバも汝を懲戒たまふなり」 申命8:5  明治元訳聖書

「あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。」 口語訳聖書

 「パンの問題」

サタンは「結局、人間はパンの問題だ。パンを与えてくれる神を求めている」と決めつける。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と答えられる。イスラエルはこのことを知るために四十年間、荒野をさまよい、飢えと苦しみを経験した。「知る」の原文は「心で知る」である。

(†心のデボーション02792)

† 心のデボーション 02793

「我心を盡し知慧をもちひて天が下に行わるる諸の事を尋ねかつ考覈(しらべ)たり、此苦しき事件(わざ)は神が世の人にさづけて之に身を労せしめ給ふ者なり」 伝道1:13  明治元訳聖書

「わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。」 口語訳聖書

 「スコトーマ」

「スコトーマ Scotomaは、盲点を意味するギリシャ語σκότωμα から来たもので、もともと眼科用語の一つで、眼に見えないポイントのことであったが、心理学的に転じて、「心理的盲点」を意味するようになった。人間の脳は見えるものすべて認識すると身体がもたない。そこで脳は重要度の高いものを見て、重要度の低いものは見えていても見ないのである。コーチングの世界では、見えない部分に気づかせることで見えないことの不具合を修正しよとアドバイスする。行き詰まったら、脳が重要でないと判断したことに気づくといきなり道が開けることがある。

(†心のデボーション02793)

† 心のデボーション 02794

「されど凡てなんぢに依賴む者をよろこばせ永遠によろこびよばはらせたまへ なんぢ斯る人をまもりたまふなり 名をいつくしむ者にもなんぢによりて歓喜をえしめたまへ」 詩篇5:11 明治元訳聖書

「しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって/喜びを得るように、彼らをお守りください。」 口語訳聖書

 「とこしえに呼ばわる」

詩人は「とこしえに喜び呼ばわらせてください」と祈る。とこしえに「喜び祈らせてください」と祈るのである。状況がどうであっても、祈りつづける信仰は神の恵みによる。

(†心のデボーション02794)

† 心のデボーション 02795

「われ曩には涜す者、迫害する者、暴行の者なりしに、我を忠實なる者として、この職に任じ給ひたればなり。われ信ぜぬ時に知らずして行ひし故に憐憫を蒙れり。」 Ⅰテモテ1:13  大正文語訳聖書

「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。」 口語訳聖書

 「暴力」

パウロは、「私は以前は、暴力をふるう者」だったと告白している。ここでいう「暴力」は、力の暴力というよりも、人に対する傲慢な態度を意味している。「暴力をふるう者」は「人を人と思わぬ者」である。人を人と思わぬ傲慢が暴力の本質である。力の暴力はかろうじて押えることができても、人に対する傲慢はほとんど押えることができない。暴力は理性の問題というよりも、祈りと信仰の問題である。

(†心のデボーション02795)

† 心のデボーション 02796

「我らが祝ふところの祝の酒杯は、これキリストの血に與るにあらずや。我らが擘く所のパンは、これキリストの體に與るにあらずや。」 Ⅰコリント10:16 大正文語訳聖書

「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。」 口語訳聖書

 「キリスト者」

「あずかる κοινωνία コイノーニア」は「交わる、共有する」ことを意味する。キリスト者とは、「キリストの血にあずかる κοινωνία (分有、共有、分担)」し「キリストのからだにあずかるκοινωνία (分有、共有、分担)」者である。

(†心のデボーション02796)

† 心のデボーション 02797

「イエスあまねくガリラヤを巡り、會堂にて教をなし、御國の福音を宣べつたへ、民の中のもろもろの病、もろもろの疾患をいやし給ふ」 マタイ4:23 大正文語訳聖書

「イエズスは全ガリラヤをめぐってユダヤ人の会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、また民のすべての病と長患いとをお治しになった」 フランシスコ会訳聖書

 「癒し」

「いやす θεραπεύω  てラペウオー」は「召使い、下僕」からくる言葉で、「仕える」から「治療」の意味に用いられる。(「セラピー Therapy 治療」の語源) 「癒し」「治療」は、病や弱さに「仕える」ことである。 イエスは人間のあらゆる病、あらゆる弱さに「仕え」られる。

心理療法などを行う人を「セラピスト therapist 療法士。治療士」と呼ぶが、その語源はギリシャ語 θεραπεύω  てラペウオー からきている。「病や弱さ」に仕える人である。

(†心のデボーション02797)

† 心のデボーション 02798

「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が聲を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん。」 黙示3:20 明治元訳聖書

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」 口語訳聖書

 「戸をたたくキリスト」

ウイリアム・ホール・ハント William Holman Hunt が描くキリストはランプの光をかざして家の戸を叩く。(『世の光』キーブル・コレッジが所蔵) 戸は内開きで内側からでないと開けない。キリストの足元にはリンゴが落ちていて、アダムとエバの罪をあらわすという。ハントは21歳で、黙示3:20から、この絵を描きはじめ29歳でやっと完成させたという。

(†心のデボーション02798)

† 心のデボーション 02799

「人の勞苦は皆その口のためなり その心はなほも飽ざるところ有り」 伝道6:7 明治元訳聖書

「人の労苦は皆、その口のためである。しかしその食欲は満たされない。」 口語訳聖書

 「魂の飢え」

伝道者は「人の苦労はみな、その口のため」という。しかし、その「食欲」は決して満たされない。口語訳聖書に「食欲」と訳されたヘブル語「נֶפֶשׁ」は「魂、いのち、自己」を意味する。聖書協会共同訳聖書は「だが、それだけでは魂は満たされない」と訳す。生きるために人の苦労は絶えることがない。しかし、生への旺盛な意欲も、それだけでは魂を満たすことはできない。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4 口語訳聖書)

(†心のデボーション02799)

† 心のデボーション 02800

「イエス之を醫したまふ」 マタイ4:24 大正文語訳聖書

「イエズスは彼らをお治しになった」 フランシスコ会訳聖書

 「アブガル王」

伝説によると、病にかかったエデッサのアブガル5世は、自分の病を癒してくれるようにイエスに手紙を記し王宮秘書官に託してイエスの元 へ送った。これに対してイエスは返書を返し、自分がこの世での使命を終えた後、弟子の1人を遣わすだろうと、告げたという。イエスの磔刑と復活の後、弟子の1人タダイがエデッサを訪れ、アブガル王の病を癒し、王は洗礼を受け「最初のキリスト教王」になったという(10世紀頃に描かれた絵画には、イエスの顔が浮き上がった聖骸布を持つアブガル王が描かれている)。 この伝説はイエスの評判がシリアにも届いたことを物語っている。

(†心のデボーション02800)

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