† 心のデボーション 02781
「そはヱホバは智慧をあたへ 知識と聰明(さとり)とその口より出づればなり」 箴言2:6 明治元訳聖書
「これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。」 口語訳聖書
「知への愛」
哲学 philosophy はギリシャ語 φιλοσοςίᾶ (愛知、知を愛し求める)からきている。既成の知に満足せず、それを超えてさらなる真実を求める意欲を意味する。哲学者 φιλόσοφος 創意に満ちた人である。
(†心のデボーション02781)
† 心のデボーション 02782
「世人はいかなるものなればこれを聖念にとめたまふや 人の子はいかなるものなればこれを顧みたまふや」 詩篇8:3 明治元訳聖書
「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。」 口語訳聖書
「小さな心」
「小心」とは、つつしみ深く、細事をおろそかにしないことを意味する。「大胆な人」は意外に小さなことにも気をつかう「小心の人」であることが少なくない。心の大きさは、どこまで小さなことに向けられ、それを生かすことができるかではかられる。その意味で「最も小さな心」は、たった一人の私にも「心を留められる神」にあるのかもしれない。
(†心のデボーション02782)
† 心のデボーション 02783
「かかる人はヱホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ」 詩篇1:2 明治元訳聖書
「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。」 口語訳聖書
「百聞不如一見」
「百聞は一見に如かず」の出典は「漢書」趙充国伝で、英語では Seeing is believing.(見ることは信じること)と訳される。百見不如一考(百見は一考にしかず)、百考一不如行(百行は一行にしかず)、百行不如一果(百行は一果にしかず)と続く。いくら聞いても自分で見なければ本当のことは分からず、いくら見えても考えなければ前に進まず、どんなに考えても行動をおこさなければ前に進まず、どんなに行動しても成果を残さなければ成長しない。
(†心のデボーション02783)
† 心のデボーション 02784
「われをかこみて立かまへたる千萬の人をも我はおそれじ」 詩篇3:6 明治元訳聖書
「わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。」 口語訳聖書
「無数の悪口の矢」
フランシスコ会訳聖書は本節の「ちよろずの民 רְבָבָה」が「無数のもの」の意味であることから、「敵のなげかける無数の悪口という意味において「矢」として、「彼らはわたしを囲んで構えているが、わたしは民の射る矢を恐れない。」と訳す。敵は無数の悪口の矢を放つが、神を信じる人はそれを恐れない。神が敵の顎を砕かれる。(詩篇3:8)
(†心のデボーション02784)
† 心のデボーション 02785
「もし汝の口唇ただしき事をいはば我が腎腸も喜ぶべし」 箴言23:16 明治元訳聖書
「もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ。」 口語訳聖書
「反対をいわせる」
「おじいさんは山にしば刈りに行きました」「行きませんでした」「おばあさんは川で洗濯を」「しませんでした」
絵本を読んであげているのに子どもがいちいち逆らう。子どもはふざけているのではなく、反対のことをいいたいのである。その時は、反対をいわせてあげることもよい。聞いてあげれば、子どもはひどいヒステリーを起こさなくなる。
(†心のデボーション02785)
† 心のデボーション 02786
「わが敎は雨の降るがごとし吾言は露のおくがごとく靀の若艸の上にふるごとく細雨の靑艸の上にくだるが如し」 申命32:2 明治元訳聖書
「わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立ちのように。」 口語訳聖書
「恵みの雨」
神の御言葉は「雨のように下り」、「露のようにしたたる」。雨が若草を生き返らせ、露が草にいのちを与えるように、御言葉は魂を生き生きとしたいのちに満たす。御言葉は朝毎に地を潤す。全身をもって恵みの雨を受けるがよい。(出エジプト20:19)
(†心のデボーション02786)
† 心のデボーション 02787
「なんぢの作爲をヱホバに託せよ さらば汝の謀るところ必ず成るべし」 箴言16:3 明治元訳聖書
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」 口語訳聖書
「偶然」
「一生のうちでいちばん大事なことは、職業の選択である。ところが、偶然がそれを左右するのだ」(パスカル『パンセ』97 より) 「偶然」が人生の大切なことに深く関わっていることは否定しない。しかし、その時、人は理解できないことを「偶然」と呼ぶのではないか? 神のお創りになった天と地には偶然は存在しない。
(†心のデボーション02787)
† 心のデボーション 02788
「イエス此處に至りしとき、仰ぎ見て言ひたまふ『ザアカイ、急ぎおりよ、今日われ汝の家に宿るべし』」 ルカ19:5 大正文語訳聖書
「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。」 口語訳聖書
「立ち止まる」
イエスはいちじく桑の木の前で立ち止まられ、木に登っているザアカイに目をとめられた。スイスの哲学者マクス・ピカートは、「愛とは立ち止まることだ」と言う。「立ち止まることも、時間を使うこともなしに愛を交すことはできない」というのである。人が立ち止まることをしないのは、愛もなく立ち止まれば、その人を傷つけると思うからかもしれない。しかし、立ち止まることで愛を受けるのは、立ち止まった人自身でもあるのである。
(†心のデボーション02788)
† 心のデボーション 02789
「白髮の人の前には起あがるべしまた老人の身を敬ひ汝の神を畏るべし我はヱホバなり」 レビ19:32 明治元訳聖書
「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」 口語訳聖書
「老い」
「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、/思いやりの気持を持て。自分が活力にあふれているからといって、/彼を軽蔑してはならない。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:12~13 新共同訳聖書) 人はみな内に「老いたる自己」をもっている。その「物覚えにぶき、活力の衰え」を無意味とはせず、懇切に面倒を見たい。
(†心のデボーション02789)
† 心のデボーション 02790
「遂に弟子たちに言ひたまふ『收穫はおほく勞動人(はたらきびと)はすくなし』。」 マタイ9:37 大正文語訳聖書
「そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。」 口語訳聖書
「収穫は多い」
神の御言葉と恵みの「収穫 」は無限である。「よき働き人」は自らに収穫の豊かさを知る者のことである。イエスの弟子は、神の御言葉の実を刈り取ることをもって神の働き人でなければならない。
(†心のデボーション02790)
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